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正法眼蔵 恁麼 4

雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。我々自身が言葉では表現できない何かであると言う事実を知るべきである。一体何によって我々が言葉では表現できない何かであると知る事が出来るのであろうか。我々は日常生活において、どういう根拠かわらないけれども、突如として言葉では表現できない何かが得たいと言う気持ちを起こす。その様に言葉では表現できない何かを得たいと言う気持ちを起こす事が、自分自身が言葉では表現できない何かであるという事の証拠となるのである。

その様にすでに言葉では表現できない何かであるという様子を我々は具えているのであるから、言葉では表現できない何かと言うものを得たいとか、得たとか、得られないというふうに心配する必要は少しもない。そして仮に日常生活において言葉では表現できない何かを得られないとか得たとか言って心配してみても、その心配する日常生活そのものが、すでに言葉では表現できない何かであるから、心配の対象になる様なものは何もないのである。この様な言葉では表現できない何かが現に在するという事を決して驚く必要はない。

仮に我々が日常生活において言葉では表現出来ない何かがあるという事実に対して、驚いたりそれが何かと思い煩ったりする事があったとしても、そういう驚きや疑問そのものが言葉では表現できない何かであって、何も驚く必要はないというふうな言葉では表現できない何かが、現に我々の日常生活にあるのである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たとえばアメリカの人たちはキリスト教のためかもしれませんが、自分より周りの人のために尽くすという事に重きを置いてやっております。ところが日本人(私)の場合は、人のことはあまり考えないで自分を磨いていこうというのが先になるんです。「自未得度先度他」という教えが仏教にもあるんだから、でき上がらなくても人を救う事が大事なんですか。

先生
その点ではね、キリスト教の考え方と仏教の考え方は明らかに違います。キリスト教の場合には、自分と他人というものを置きまして「自分を犠牲にしても他人のため」という考え方です。仏教はどういう目標を置いたかと言うと、自分と他人のけじめがなくなるという事です。自分も他人も同じもんだから、大きな宇宙の中の泡のようなもんだという事に気がつくという事です。

そうすると、自分を犠牲にして「人のため、人のため」という努力も必要ないし、そうかといって人の利益を損なってでも「自分のため、自分のため」というのも本当の生き方ではない。人も自分も同じ丼の中の粟粒の様なものだから、どっちが先に行っても、どっちが後になっても大した違いはないというのが仏教の立場です。

質問
そうすると、「身心一如」という立場もありますね。

先生
そうです。だから、「身心一如」とか「自他不二」とかという考え方になります。それでね「人様のため、人様のため」という考え方がわりあい危険なものをもっているんですよね、裏から見れば、「人様のため、人様のため」という事で個人がやっていけるかというと中々そうはいかない。だからそういう点では、仏教のような考え方で、「自分も他人もあんまり違いがないんだ、どっちが良くてもそう大して大きな問題じゃない」という捉え方の方が、実体としては現実にかなっているいう事が言えると思います。

それが仏教の主張だし、仏教の主張が非常に温かい主張だという事はそのことなんです。「自分を滅却して、人のために尽くせ」という事も言わないし、「人の利益を犠牲にして、自分の利益を図れ」という事も言わないし、この世の中の成り立ちとは人様も自分もそう大した違いはない、同じようなもんだ。人様がよくなっても自分がよくなってもそう大きな違いはない、だから人様がよくなるときは人様がよくなるように、自分がよくなるときには、申し訳ないけど自分がよくなるようにという事で一向におかしくない。

誰がよくなる、誰が悪くなると言ってみても、そんな実態があるのかどうかさえ分からない。現実そのものが眼の前にあるだけなんだと、そういう事です。

質問
ああ、そうですねえ、ありがとうございました。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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