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正法眼蔵 恁麼 3

雲居道膺禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

体というものを考えてみても、体自身がすでに個人的な存在ではなく、生命は時間の経過とともに変化して、ほんの僅かの時間も停止させることはできない。年若かった頃の輝かしい顔は一体どこに隠れてしまったのであろうか、それをもう一度見つけようとしても、どこにそれを見つけたらいいのかわからない状態が我々の人生である。

よくよく考えてみるに、過去における出来事というものは、もう一度であう事ができないと言うものが殆どである。我々は日常生活における瞬間瞬間に真心を込めて行いをしているのであるけれども、その真心の行いと言うものも、瞬間瞬間に現れては消え現れては消えるに過ぎない。我々の日常生活において確かに真心というものはあるけれども、その真心というものも自分というものを頭の中で考えた時に、その頭で考えられた自分の周辺に真心というものがついていて離れないと言う形のものではない。

この様にこれと言って自分としてはっきり掴む事のできるものが何もないにも関わらず、どういう根拠かはっきりわからないけれども、突如として真実を得たいと言う気持ちを起こす事がある。この様な真実を得たいと言う気持ちが起きると、従来取り扱っていた様々のものを一切なげ捨ててまだ聞いた事のない教えを聞きたいと願い、まだ体験した事のないところを体験をしたいと思う様になるのは、決して自分というものがあって自分が何をしたいと言う作為的な形で生まれて来るものではない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
昨日、紀野一義さんという方の仏教の論評を読みましたが、「禅者は坐禅をすることばかり主張していて、非常に豪快であるけれども頑固さが感じられる」と言っていますが、私はそうは感じないんですけどね。

先生
うん、私もそうは感じない。

質問
どうしてそういうふうにとるのかなあと。あの人の書き出しが「私は禅者ではない」と書いてありましたから「ああ、それは頭で考えたことだな」という事で理解できましたけど。

先生
そう。だからね坐禅をしていると、そう頑な人間にはなりませんよ。坐禅の中から生まれてくるのは、非常に柔軟な心であり体であるという事が言えると思います。だから道元禅師が中国から帰られたときに、「中国から何を持ってこられたか」という質問に対して「柔軟心を持ってきた」と言われたのは、まさに坐禅からは否応なしに柔らかな体、柔らかな心が生まれてくるという事でしかないと思います


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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