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正法眼蔵 麼恁 1

恁麼(いんも)の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

恁麼というのは、宋の時代の日常会話に使われていた「あれ」「それ」「何」と言うふうな意味の言葉であります。仏道というものの究極というものは何かという事が問題になるわけでありますが、釈尊の教えに従えば、我々の生活における究極のものというのは、現実そのものであって、言葉では表現できないという原則があるわけであります。

今日のようにものを考えるという事が非常に進んでまいりますと、一切のものは理屈でわかるはずだという信仰があるわけであります。ただ釈尊は我々が住んでいる世界の中で一番大切なもの、究極のものは言葉では説明できないという体験を持たれたわけであります。そしてそういう我々の人生の究極にあって、しかも言葉では説明できないものを「恁麼」という言葉で表現したというのがこの巻の主題であります。

この「恁麼」という表現は中国において生まれた表現でありますが、中国における唐、宋の時代の仏教に対する理解は哲学的に非常に深い境地に達していたというところから、仏教の究極のものは言葉では表現できないと言う意味で、この「恁麼」と言う言葉が重要視された。その重要視された言葉を道元禅師はこの巻で説明されている訳であります。  


「恁麼」の巻、本文に入ります。
雲居道膺禅師は洞山悟本大師の正統の後継者である。釈尊から数えていくと第三十九代目の孫弟子に相当する。したがって、洞山悟本大師が開かれた宗派における正統な教団の指導者であると言う事が出来る。

雲居道膺禅師がある時、たくさんの僧侶に説示された。   
例の言葉では表現出来ない何かを得たいと思うならば、まさに言葉では表現できない人になるべきである。

※西嶋先生解説
ここで恁麼人(言葉では表現できない人)というのは何を指しているかというと、坐禅をやっている人の事を指しているわけです。だから仏道が目標としておる言葉では表現できないものを得たいと思うならば、坐禅を通じて言葉では表現できない何かになってしまう事が一番近道だと。

坐禅を通じて言葉では表現できない何かになってしまえば、もう現実には表現できない人になってしまっておる。そういう状態になったならば、仏道の究極がどうであるとか、仏道の真実が何であるかというふうなことを心配する必要は全くない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は坐禅ができる事を幸せに思っているんです。私の友達にギックリ腰で坐る事が出来ない人がいるんですね。病気になっている人に道元禅師の話をするのは何か気の毒であるような気がするんですが、そういう人にどう接したらいいんでしょうか。

先生
たまたまギックリ腰と言う病気が実例に出た訳ですが、坐禅をやっているとギックリ腰には絶対にならない。これは毎日腰骨の状態を正しい状態においておる訳だからね。ギックリ腰と言うのは、その腰骨の状態が歪んだまま何十年もそういう生活を続けるから、結局無理に無理が重なってどうにもならなくなって出て来るのがギックリ腰ですよ。だからそういう点では、坐禅をやっている限りギックリ腰にならんと言う事が言える訳ですよね。
     
ただ、たまたま様々な体の疾患でどうしても坐禅が出来ないと言うふうな状態の人がいないとは言えない。その人たちがどういう形になるのかと言う点については、第三者からは想像できない。私自身も想像できない。だからそういう体の疾患でどうしても坐禅が出来ない人々に対してこうすべきだなんて事は言えないわけでね。結局、そう言う当事者自身がどういう形で坐禅と同じ様な効果が生まれるかとか、実際にどうしても出来ないのかどうかと言う点は、それぞれの当事者の問題だと言う事にならざるを得ない。
     
その点では、私自身も自分の経験しない事、自分の経験できない事については論議が出来ないと言う問題がある訳ですね。だからそういう事については、私自身としても「今のところわかりません」と言う答えにならざるを得ないという事があると思います。これは決して薄情でも何でもないんでね。ただ自分で経験しない事については言えないと言う事ですよね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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