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正法眼蔵 仏向上事 30

黄檗希運禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

仏道修行を真剣にやっている場合には、必ずこの様な真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を努力してやっていくと言う大切な状態が現実のものとして現れるのである。仏向上事(真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を一所懸命やって行く事柄)というものは、自分が真実を得て仏の境地に到達した後も、さらに真実を得た人々を常に頭において日常生活の中に見出して毎日の生活を続けて行く事である。

悟ったからと言って惚れて仏をないがしろにすると言う事ではなくて、ごく普通の人が仏というものに憧れ、仏というものを尊敬するのと同じ様な状態で仏を見、仏を頭において日常生活を送る事である。まだ真実というものがサッパリ解らず、仏というものを自分以外のところに置いて考えていると言う状態の場合とその状態は異なるのである。

もし真実を得たのちもさらに真実と一体になって生活していく境地において、仏(真実を得た人)に対する対処の仕方が、普通の人々と同じように、仏というものを自分以外のところにおいて、それに憧れる、それに近づくことに努力するという事であるならば、仏を見るという見方については誤りを犯していると言わざるを得ない。その様な形で仏を自分以外のところにおいて、それを求める、それに近づこうとして焦ることであるならば、どうして仏向上事と同じだという事が言えよう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は人間が一所懸命やる行動すべてが仏道修行だといいますが、行いにも善悪があると思いますが、悪事に没頭するたとえば泥棒三昧なんていうのは・・・・。
 
先生
その点では、仏道の世界は善悪を乗り越えた世界です。善悪にこだわっている時には坐禅の境地と言うのは無いんですよ。普通は善と悪があって、悪を離れて善につけというのが普通の宗教の教えです。仏教にはそれは間違いだと言う主張があるわけですね。つまり、善だ悪だとこだわっているうちはいい事は出来ない。善悪を乗り越えた世界で、一所懸命にやるのが真実の世界だと言う事でもある。これが仏教思想、非常に特徴のある思想です。

日常生活の経験からすると本当なんですよ。つまり夢中にやっている時に、本当の生活があり本当の人生があるというのが実情です。そうすると、善いか悪いかと頭の中で考えている状態、つまり余裕のある状態、切実でない状態は、真実の世界ではないと言う考え方が仏教にはある。西洋思想の場合は善と悪とに分けて、善がどう悪がどうと言う事で何千年も思想が発達してきたわけです。仏教思想のような形で「善悪を乗り越えるという中に本当の意味の実際生活がある」と考えざるを得ない面があります。
    
質問
坐禅の目的は「悟り」に達する事だと聞きましたが本当でしょうか。

先生
世の中には、坐禅をある種の「悟り」に達するための「手段」とみなす人々がいますがこれは間違いです。道元禅師の「正法眼蔵弁道話」には、「初心の弁道すなはち本証の全体なり」と書かれています。これは、「初心者が取り組んでいる坐禅が本質的な体験のすべてである」と言う意味です。我々は坐禅を始めた瞬間から釈尊と同じ境涯に安坐することができる。

坐禅に関するかぎり、初心者と熟練者の間に本質的な違いはありません。坐禅そのものが「悟り」に他ならないのであって、人は坐禅している自分に絶対の自信をもつべきです。「一秒坐れば一秒の仏」という言葉が、坐禅の本質をみごとに表現しています。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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