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正法眼蔵 仏向上事 29

黄檗禅師の言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。

牛頭山法融禅師は中国の第四代目の教団指導者である大医道信禅師のもとで長年にわたって修行を積んだ弟子であり、縦横無尽に論議するだけの力量は具えていた。仏教に関係した事柄についても、経典に関する師匠や論議に関する師匠たちと比較するならば、インドにおいても中国においても決して不足なところはない力量であったけれども、残念な事には、真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を努力して行くと言う、仏道修行における非常に大切な問題を承知していなかった。

仏道に関連しては、真実を得た後もさらに真実に沿って、一所懸命日常生活を努力して行くと言う問題がある事を言葉にして述べた例はない。もし仮に仏道を勉強している人が、今ここに述べた様な釈尊以来代々伝承されて来た極めて大切な事柄を承知していないならば、どうして釈尊の説かれた教えの何が正しくて、何が間違っているかと言う事を判断し、理解する事ができよう。その点では牛頭山法融禅師と言えども、ただ言葉だけで仏道を勉強している人と言わざるを得ない。

この様に考えてくると、仏道には真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を努力して行くと言う非常に大切な問題があるという事を承知しているかいないか、あるいはその非常に大切な事項を実際に修行しているかいないか。あるいはその大切な問題を実際に体験しているかどうかという点に関連しては、黄檗禅師の境地とはまったく別であるという事が言える。


 
          ―西嶋先生にある人が質問した―
質問
おうかがいします。仏向上人というのは、仏になってもやめないでますますやって行くんだと。洞山禅師だけが仏向上人だと。臨済禅師、巌頭禅師、雪峰禅師は仏向上人に該当しないのはどうしてですか。仏になってストップしたなんて事はないような気がするんですが・・・。
     
先生
臨済禅師も、徳山禅師も、巌頭禅師も、雪峰禅師も、とにかく仏道修行をして偉くなったんだけれども「俺は偉い」と思っていたと言う事が言えると思います。ところが洞山大師は「俺は決して偉くないんだ」と言う生活意識で生きておられた。その方が仏道修行の境地としては上だという事うを言っておられる訳です。
 
質問
じゃ初めは偉いというふうに思うんですかね。

先生
だから初めは偉くなろうと思って一所懸命修行する。これは誰でも共通していると思うんですよね。ただ本当に偉くなった場合には「俺は偉いんだ、俺は偉いんだ」と言う気持ちがなくなってしまう。ごく普通の人と当たり前の様な生活をするようになるものだ。しかし「仏道というのはそういうものが究極だ」という事に気づかれた方は割合人数が少ないと、そういう事を言っておられる。

質問
偉くなるって言うとおかしいんですが、他の方は師匠から証明をもらってその教団では錚々たる者になったんだけれども、得意になるわけですね。洞山大師は得意も何もなくなっちゃうわけですか。

先生
はい、そういう事を「仏向上事」と言っておられる訳です。

質問
なくなっちゃって、なお一所懸命やっているうちに無くなってしまう訳ですか。

先生
と言うよりも、自分でもそう偉いと感じて生きておらないし、人から見てもそう偉いとは見えない様な生き方をしている。ただ真実と一体になったと言うのはそういうものだと。だから、どっかに偉さが残っているうちはまだ本当のものと一体になったと言い切れないと、そういう主張がある訳です。

質問
仏道というのは、少々やったんではちょっと人から言われるような・・・。

先生
つまり、仏道修行をやって他の人とちょっと違ってきたと言う意識がある様では、まだ不十分だという捉え方ですよね。「俺は仏道修行をやったんだ、俺は他の人と違ってちょっと偉いんだ」と言う気持ちが残っているうちは、まだ本当に究極のところへ行ったかどうか解らないと言うのが道元禅師の主張です。

質問
偉いとか、偉くないと言うのはどういう事なんですか。

先生
そんなものはない、と言うのが仏教の主張です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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