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正法眼蔵 仏向上事 28

黄檗希運禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。

ここで黄檗禅師が言われている釈尊以来代々の祖師方によって長い間伝承されてきた事柄というものは、釈尊以来代々の祖師方によって伝承されてきたところのものを言うのである。これを正法眼蔵(正しい宇宙秩序の眼目の所在)と言い、きわめて平隠さに満ち溢れた至福の心境とも言うのである。この様な状態は誰にでも具わっているけれども、たいていの場合はそれに気ずかずに一生を終わってしまう。

そして釈尊以来代々の祖師方によって伝承されて来たところの教えというものを勉強しない場合には、夢にさえその様な事態があるという事を知る事が出来ない。黄檗禅師は百丈禅師の弟子であるけれども、その力量は百丈禅師よりも優れていたし、また黄檗禅師は馬祖禅師の孫弟子に当たる人であったけれども、その力量においては馬祖禅師よりも優れていた。

一般的に言って、この黄檗禅師の前後三代、四代というふうな間を考えてみ見ると、黄檗禅師ほど優れた力量の人は見当たらない。黄檗禅師はその様に優れた力量を持っておられたから、牛頭山法融禅師の様子を見て、牛頭山の法融禅師には「牛の頭」と言う名前が付いているけれども、牛にあるべき二本の角が具わっていないと言う事をはっきりと承知された。この様な牛頭山法融禅師に対する判断と言うものは、黄檗禅師以外の祖師方は誰も気づかれなかったところである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき

道元禅師の流れをくむ方でも、仏道の大衆化という事を考えて色々と信徒を増やされた方は沢山おられる訳です。我々が「正法眼蔵」を読めると言う事が仏道とは何かと言う事がわかる今日唯一の手がかりです。そう言う点から見ると、道元禅師が沢山の信徒を集めるためにもう少し優しい本を書かれるよりも、難しい本ではあるけれども、本当の事が書いてある本の方が仏道を勉強する上においては絶対の価値がある。


この「正法眼蔵」がなければ、私自身は仏道と言うのは絶対に解らなかった思う。仏道がまがりなりにも解る様な状況に立ち至ったと言うのはまさにこの本があればこそ。この本がなかったら、私は仏道と言うのは絶対に解らなかったと思う。多少勉強してみたところで、あっちに迷い、こっちに迷い、結局何が何だかよくわからんうちに「ハイさようなら」と言う時期が来ただろうと思う。その点では、この本の有り難さと言うものを私は非常に強く感ずる訳です。

そういう点からしても、仏道を説く場合に中身を変えると言う事は出来ない。仏道の中身と言うのは、動かしようのないたった一つの理論があるだけで、その理論以外に仏道と言うものは絶対にありえないという事、この事は非常にはっきりしていると思う。その事を解らせていただいたのが、この「正法眼蔵」だと言う事に他ならない。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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