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正法眼蔵 仏向上事 27

黄檗希運禅師が言われた。

本来、出家人(家庭生活を離れて僧侶になった者)は、釈尊以来代々の祖師方によって伝承されてきたところのやり方があるという事を承知すべきである。たとえば、中国における四祖大医道信禅師の弟子にあたる牛頭山法融禅師は、論議に関連しては自由自在で非常に優れた才能を持っていた。しかしながら、真実を得た後もさらに真実にそって日常生活を安定した状態で送っていくと言う、真実を探求していく上での大切な問題を知らなかった。

真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を送っていくという、ものの見方、ものの考え方を持っている状態ではじめて、何が誤っていて何が正しいかという基本的な考え方に対する人間の区分けというものがわかってくるであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
   --つづき

先生
仏道は沢山の人を集める事が目的かどうかと言うと、これは疑問なんですよ。仏道と言うのはかなり高度の思想だから誰にもわかると言う思想ではないんです。誰もが好きになる思想でもない。これははなはだ残念な事だけれどもね。誰もが「わ-、素晴らしい」と言う感じで今は受け取られる思想ではない。道元禅師が一箇半箇の人を養成すると言う事を言われたのは、仏道にはそういう性質があるという事を言っておられる訳です。
     
道元禅師だって勿論たくさんの人に仏道を説きたいと言う気持ちは当然あっただろうけれども、沢山の人を集めるために教えをまげると言う事は絶対にしないと言う確信はあったと思う。その事が「一箇半箇の真人を打出する」と言う言葉になって表れている。仏道を説く場合に沢山の人に聞いてもらう事はもちろん必要だけれども、中身を曲げてまで人を集める事は絶対に必要ない。

だから私は人を集めるための言葉は一言も言わない。言葉の技術として人を喜ばせる事は必要はあるかもしれないけれども、中身を変えるという事は絶対にしない。また仏道というものは中身の変わるべきものでもないと思っている。だから、仏道と言う思想をこれは本当だと思って学びたいと言う人だけしか集ってこない。それ以外は集ってこない。集めようと思っても、集める事で出来ないと言うのが実情としてあると思います。
                                 
「正法眼蔵』がなぜこんなに難しいかと言うと、仏道の中身は一つしかないんだから、それを一所懸命説こうと思ったらこう言うふうに難しくなってしまったという事なんです。道元禅師が別に難しい事を言うのが好きであった訳ではない。仏道と言うものを言葉で表そうとすると、どうしてもこういう難しいものにしかならなかったという事に他ならない訳です。
                       つづく--
     

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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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