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正法眼蔵 仏向上事 24

石頭無際大師と天皇道悟禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

道悟禅師は「一段と進んだ境地において、ほかに問題の本質を表現するような言葉がありますか」と質問した。仮にこの道悟禅師の質問に対して、石頭無際大師が別の言葉で仏道の大意を表現する事が現実にできたならば、石頭無際大師はさすが真実を得た上にさらに仏道の追求をしていくという境地を具体的に実現しておられたという事がわかる。

ここで「別の言葉」と言われているのは何を指すかと言えば、「方便」と言う言葉に他ならない。方便というのは人を教えるための手段という意味である。ここで「方便」という言葉が言われているけれども、その意味は、具体的に真実を得られた沢山の方々であり、仏教界において指導者となっておられた代々の祖師方の事である。人を教える手段というのは、現実に真実を得られた方々そのものを指すのである。

この様な真実を得られた方々をどう表現するかという事に関連して「他に表現の方法がありましょうか」と質問されたものであろう。「さらに何かがありますか」と質問しているけれども、他にどのような表現をしてみても、それはあくまでも言葉の説明であって、真実を表現した事にはならないと言う意味からするならば、「更ニ無シ」という表現も可能であって、そういう表現を取り落とすことがあってはならない。そういう意味の言葉もさらに述べる必要がある。

この様に「更ニ有リ」「更ニ無シ」という二つの境地をともに表現しなければならないのが仏教の立場であるけれども、石頭無際大師が言われた言葉は「大空というものは白い雲が邪魔にならない」という言葉であった。



              ―西嶋先生の話―

我々がなぜ仏教を勉強したり「正法眼蔵」という本を勉強するかという問題について話します。今日の時代というのは基準になる考え方のない時代です。「どういう考え方に従って生きていったら良いのか」と言う事がわからない時代と言うのが、今日の時代の特徴ではなかろうかと思うのであります。

昭和20年、戦争に負けたと言う事が大きな原因であろうかと思います。敗戦まで国の活動は一切が国家を中心にしてやってきた。負けるはずがないと言う考え方で、それまでは勝つつもりで一所懸命やっていた。昭和20年、戦争に負けてそれまでの国民生活を形づくっていた考え方が全部壊れてしまった。焼け野原になって、とにかくご飯を食べなければとガツガツやってきたのが昭和20年以降の我々の生活です。

いい事とか悪い事とか、恥ずかしい事とか恥ずかしくない事とかにはあまり関心がなくなってしまった。損か得かという事が大事になってきた。そうすると、人の見ていないところでは何でもやると言う考え方になる。もう一度、基準になる考え方を取り戻すと言うのが我々のやっている仕事ということです。 

それでは、昭和20年まで盛んであった考え方をもう一度取り戻すかと言うとそんな事ではない。あの時の考え方が正しければ、日本の国は全部壊れる形にはならなかった。そうすると戦争前の考え方でもなく、昭和20年以降盛んな考え方でもない考え方が必要となります。世の中には色々な考え方があるが人間の生き方の基本にさかのぼって、どういう生き方をしたら自分自身が満足がいくか、人に迷惑をかけないですむか、社会が大いに発展するか、国家が世界に対して指導的な立場に立つことができるか、そういう問題につながるわけです。

我々は、どういう時代にも通用し、世界のどこでも通用する正しい考え方があると確信を持って、道元禅師の「正法眼蔵」を勉強しているのです


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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