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正法眼蔵 仏向上事 22

石頭無際大師の教団で天皇寺の道悟禅師が質問した。
釈尊が説かれた教えの根本的な意味というものは、一体どういう事でありましょうか。

石頭無際大師言う。
釈尊の教えの根本というものは、つかめるとか、認識出来るとか、知る事ができるとかというふうなものではない。

道悟禅師問う
一段と進んだ境地で、さらに別の表現がありますでしょうか。

石頭無際大師言う
大きな空というものは、白い雲がいくら飛んでも、限界があって白い雲が飛べないということはない。

石頭無際大師と天皇道悟禅師との問答について道元禅師が注釈されます。
石頭無際大師は大鑑慧能禅師の二代後の方である。天皇寺道悟禅師は薬山惟儼禅師の弟弟子である。道悟禅師の「釈尊が説かれた教えの根本的な意味は一体どういう事でありましょうか」と言う質問は、初心者や遅れて仏道を学び始めた人々にはなかなか質問し得るところではない。

この質問は、相手がかなり仏道というものがわかって来て、仏道の大意というものを質問したならば、その仏道の大意というものに関連して理解し、回答ができるであろうと思われる時点において言うべき質問である。それに対して石頭無際大師は「我々が頭の中で捉えたり、承知したりする事のできるものではない」と言われた。

銘記せよ。釈尊の説かれた教えは仏道を学び始めたその時点においても、仏道の基本原則というものははっきりと具わっているし、また仏道修行が長年進んで究極の境地に到達したときにも、やはり最初の時のような基本原則というものは有るという事を承知しておかなければならない。その仏道修行における最初においてもあり、また仏道修行の最終段階においてもある究極の趣旨が何であるかと言うと「頭でつかめるものではない」と言う事である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏教文化(東京大学仏教青年会刊)の中の先生の論文の記述で、先生の四諦論がちっとも敷衍しないという事なんですけれども、本当ですか。

先生
これはね、行動を重視した思想がないからですよ。行動を重視した思想が仏教思想なんです。ただ今日、仏教を理解する場合には、頭の中で考えてどうこうという理解が殆どなんです。そのことは別の言葉でいえば、坐禅をしながら仏道を勉強するという態度がほとんどないんですよ。仏教の研究の世界の中で、そのことが一番の基本原因だと思います。

質問
仏教関係の大学は、いろいろ各種の大学がありますけれど、そういう大学の教授の研究課題としてそういう事は取り上げられないんですか。

先生
その点では、仏教を学問的に研究しておられる方々と修行専一で学問をされない方々と二派に分かれてるんです。だから坐禅をしないで仏教の勉強だけしておられる方々は、「西嶋の議論は素人考えだ」と、こういうふうな見方をするわけです。それから坐禅だけをしておられる方々は、「あれは理屈だから、取りあげるに足りない」と見ておられる。そういう事が実情だと思います。

質問
そうすると、現在の仏教関係の大勢のお坊さん、その他いろいろ関係者がいますけれど、何万といるわけですが、それで満足しているという事は、現状で満足してちっとも不満も刺激も感じないからですか。

先生
うん、そういうふうな事情はあると思いますよ。というのは仏道という思想そのものが本当の意味で取り上げられているかどうかというと疑問な面があると思います。今日の情勢は単に理論として取り上げられている場面と、理論抜きの実践として取り上げられている場面と二派に分かれているんですよ。そうすると両方をつなぎ合わせたところに四諦論をどう考えるかという立場が出てくるわけで、だからそういう点で四諦論が問題にされるのは今後だと思います。

質問
一年ぐらい前ですが「大法輪」という雑誌に先生のやはり四諦論を中心にした論文が載りましが、ああいう雑誌に載ってもあんまり反響はないんですか。

先生
まあ、ないですね。

※私の独り言
私にとって坐禅の実践と先生の四諦論がなかったならば、どんなに沢山の仏教書を読んでも「仏教(仏道)とは何か」という事はわからなかったと思う。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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