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正法眼蔵 仏向上事 21

智門光祚禅師にある時僧が質問した。

昔から「仏向上事」と言う言葉で、真実を得られた方々がさらに真剣に日常生活を送って行くと言う事柄があると聞いておりますが、一体それはどう言う内容のものでありましょうか。

智門光祚禅師答えて言う.
旅行用の杖は太陽や月の光があって始めて役に立つ。僧侶の使う杖は絶えずその先に太陽や月をぶら下げている様なものだ。

智門光祚禅師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。
ここで言われている様に、我々が日常生活において使う杖にも、太陽が関連し月が関連していると言う捉え方が「仏向上事」である。一段と物事を本質的な立場で捉えた境地に他ならない。

太陽や月という非常に大きな広い境涯を基礎にして、杖という個々の問題を考えていくならば、きわめて具体的に個々の事物というものに我々の関心が集中するのであって、「天地一杯」と言う広い立場というものは我々の意識から消えてしまう。したがって、我々は広い立場から問題を考えなければならないと同時に、さらにきわめて具体的な個別の問題を考えるという立場も必要である。

※西嶋先生解説
我々が問題を考える場合に、非常に高い広い立場から問題を考えるという事になると、ご飯を食べなきゃならんというようなことを忘れてしまう、我々が人間の問題を考えていく場合には、ご飯を食べなけれぼならんという基礎事実を決して忘れてはならない。ところが思想が広大になってくると、「人間は霞を食っていても生きていける」という思想になりがちになるわけです。

道元禅師の注釈に戻ります。
太陽や月と言う広い立場と、杖の様なごく普通のものとが本質的に同一だと言っている訳ではない。太陽や月が宿っていると言われた杖の先は、一体何を意味するかと言えば、具体的な杖そのものに他ならない。そしてその杖そのもの、一切の理屈を抜きにした杖そのものが「仏向上事」と言う言葉で表現せられる実態である。それは現実そのものである。具体的な事物そのものである。



              ―西嶋先生の話―

欧米の思想では人間の体の状態がどうであろうとも、人間の考える事は正しいと言う主張があるわけです。これは数学の様な問題についてはまさににそのとおりです。酒に酔っていてもそうひどく酔っていなければ、1+1=2で通用すると思います。ただそれと同時に自律神経がバランスしている状態とバランスしていない状態では、価値の判断について結論が違うと言う問題があります。交感神経が非常に強くなっていて世の中を批判的に見るという立場に立って生きている場合には、何を見ても批判が起きて腹が立つのです。そう言う考え方が正しいかと言うと、その人はそう思っているかもしれないが、世間一般に通用するかと言うと必ずしもそうとは言えない。

この世の中に不満を持って「あれもけしからん、これもけしからん」と言って、朝から晩まで腹を立てている方は意外にいるんじゃないかと思われます。その人達は自分自身では「私は正義感が強い」と思っている。ただそういう正義感が社会全般に適用する正しい判断かと言うとこれは疑問です。

釈尊はその事に気づかれた。だから人間のものの判断も、自律神経がバランスしていないと正しいとは言えないと主張されたわけです。これが仏教哲学では非常に重要な特徴であります。このものの考え方は、欧米思想の中では見つけにくい。欧米思想では体と心とは別ものだという考え方が普通です。たとえ体の状態がどんな状態であろうとも「人間の理性は絶対だ、普遍妥当だ」と言う考え方を探る事が欧米の哲学思想の一つの基本であります。

そこに欧米思想と仏教思想との違いがある。その点ではどちらが正しいかと言う事ではなしに、欧米思想の到達し得なかった領域に仏教思想は踏み込んでいると言う事になります。したがって今後欧米思想がさらに進歩発展を遂げるとするならば、仏教思想がとりあげている様な領域に入りこんでいかざるを得ないと言う事が現在の欧米の文化の実情だと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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