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正法眼蔵 仏向上事 20

盤山宝積禅師が言われた。

向上一路(真実を得たとか得ないとかという境地を乗り越えて、絶対の世界、現実の世界、法の世界の中に生きているという自覚をしっかり持った場合)には、その境地というものは、たくさんの真実を得られの方々でさえ、なかなか伝承することのできない非常に優れたものを持っている。  

盤山宝積禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
ここに言われるところの向上一路とは、一ただ一人盤山宝積禅禅師だけが言われたところである。盤山宝積禅師は「向上事」と言う言葉や「向上人」という言葉を使わずに、ただ「向上一路」と言う表現をされた。その趣旨は沢山の真実を得られた方々がお互いに競い合って出現してきたとしても、その境地は各自独特のものであって人に伝え得るものではないという事である。

この伝え得るものではないということは、たくさんの真実を得られた方々がその「向上一路」において生活され行動されているのであるけれども、人にはどうしても伝えることができない境地というものを各人がそれぞれ持っておられるという事である。このように学ぶべきである。

このように学んでみるべきであるけれども、さらにもう一言付け加えておく必要がある。向上一路の世界においては、賢い、偉い、優れているとかと言うものが、眼に映って誰にでもそれと分る様な境地ではない。



              ―西嶋先生の話―

私は坐禅の時に、棒を持って叩いて回るというような事はしない。なぜしないかと言うと坐禅の邪魔になるから。坐禅というのは各人が自分自身で坐禅をやろうという気になって一所懸命やっている。これくらい尊いものはない。はたから棒を持って回って、姿勢が崩れていたら叩くという事は全く必要がない。各人が自覚を持って坐禅をやりたいと思うから、こういう坐禅会に集まって来る。

集まって来た時から、もうすでに仏になっている。さらに坐禅をして仏の光が増すという事でしかない。あとは坐禅を毎日やれるというところにもっていく。坐禅を続けていく事によって、人生をどう生きなければならんかと言う事は坐禅が教えてくれる。偉い師匠がいて教えてくれると言う事よりも、坐禅をやる生活を通して自分自身がどうしなければならないかと言う事が本能的にわかり直観的にわかる。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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