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正法眼蔵 仏向上事 17

雲居道膺禅師が大先輩である洞山悟本大師のところへ行って教えを受けた。

あるとき洞山悟本大師問う。
お前の名前は何と言うか。

雲居道膺禅師答えて言う。
道膺と申します。

さらに洞山悟本大師問う。
道膺と言う名前がお前の名前であるという事は分かった。ただ、そう言う人間がつけた名前ではなしに、さらにそれ以上の本源的な立場において、お前を何て呼んだらいよいのか。

雲居道膺禅師答えて言う。
単に名前を付けられた常識的な世界の問題ではなしに、もっと本源に立ち入った立場で自分の名前というものを考えてみるならば、自分の名前を道膺とは申しません。

洞山悟本大師大言う。
この様なやり取りは、自分が雲巌曇晟禅師の教団で修行をしていた時に師匠と問答した時の様子と、いまお前と私との間で行った問答とは、その様子が少しも違わない。

洞山悟本大師と雲居道膺禅師の問答について道元禅師が注釈されます。
師匠と弟子との間における問答について、かならず詳細に検討してみる必要がある。道膺禅師は「もっと本源に立ち入った立場で自分の名前というものを考えてみるならば、道膺とは申しません」と答えたということは、道膺禅師が一段と高い境地に進んだ状態を言っているのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
自分ではドッシリ落ち着いていたいのですが、周囲を気にしてしまい、したくない事もみんなと一緒にやってしまうのですが、自分に忠実に生きると言う場合に、そんな事はお構いなしにやったらよろしいんでしょうか。
  
先生
傍に合わせなくてはと言う気持ちと、自分はやりたくないという気持ちと両方あった場合には、両方を捨てないで悩むんですよ。徹底的に悩むと、最終的にどの辺に自分が止まればいいかと言うのがはっきり出て来る訳です。それ以前にどっちに行くべきだという原則論で動いてはいかんと言う事ですよ。人生とはそういうものですよ。

二つの極端な意見があって、どっちかに従えというのが新聞にいっぱい書いてある。雑誌にいっぱい書いてある。本にいっぱい書いてあるけれども、我々の人生はそう甘いものではないんですよ。一つの原則が右にあると反対にかならず左がある。その右の原則と左の原則のどの辺に自分の位置を置いたらいいかと言うのが、我々の日常生活で毎日、瞬間ごとに要求されている決断です。

だからそういう点では、原則論で右に寄ったらいいんだ、左によ寄ったらいいんだと言う事じゃなくて、右と左の対立している考え方の中間で悩みに悩むんですよ。そうして、悩みの果てに「これで行くんだ!」という自分自身の確信が出て来る。そういう確信で動くという事です。それは決して極端な形ではないんですよ。それは傍から見てもおかしくは受け取られないし、自分自身の良心にも背かないしと言う生き方が必ず具体的にある。

そういう具体的なぎりぎりいっぱいの生き方を仏道と言うんです。ぎりぎりいっぱいのあり方というものが法です。だから、そういう具体的な形で法というものを学び仏道を学んでいくというのが本当の意味での仏道修行です。
     
質問
その場合、反対側の方から仮に非常に極端に責められたとした場合に、やはり逃げてはいけないわけですか。

先生
逃げてはいけない。そういう場合に、傍がどんなに文句を言おうとも決然として自分の道を行くという事も仏道にはある訳です。その言葉を「異類中行」と言うんです。これは「正法眼蔵」にもよくでてきますがね。傍がどう考えようと「俺はこれでやるんだ」という決断がついたら決然として行うということも仏道の中にあるわけです。ただそれと同時に、もう初めから人に逆らう事が趣味だというような形で、何でもかんでも反対と言う人がいるけれども、そんなのは仏道ではない。

やっぱり周囲と自分の意見との間で悩みに悩まなきゃ。その結果「これだ!」と言うところがはっきり出てきた時に、自分の道が定まると、そういうことですよね。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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