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正法眼蔵 仏向上事 16

浄因枯木禅師の説法について道元禅師の注釈は続きます。

そしてまた、真実を得た人に対して相手を批判するだけの力量があればこそ、本当の真実を得た人に出会うのである。また本当の真実を得た人にであう事が出来たからこそ、その相手を批判する事が出来たと言う事が実情である。この様に普通の常識では捉える事の出来ないほど途轍もなく大きな規模の人物であるから、他人に会えば何の意味もなくニッコリと笑う。頭のよい人物などと言うものの片鱗もない。居眠りをよくする上に、なお寝言まで言う。

銘記せよ。このような状況というものは一体どういうことかという問題を考えてみると、自分の周囲を取りまいているあらゆる山、自分をのせている大地の全てが、十分自分を知っていてくれるような状況であり、価値の高い石で体全体が出来上がっているという状況でもあり、それを包んでいる周囲の状況や事物というものは、個々の具体的なものとしてありのままに見えるという環境でもある。この浄因枯木禅師の説法を静かに学び考えてみる必要がある。この理解を軽率に慌ててしてはならない。

※西嶋先生解説
この辺の説明でもわかるように、仏道修行の究極というものは、偉さというものを通り抜けて、ごく当たり前の人間になるという事に他ならないという事が言えるわけであります。普通、宗教というものは、偉い人間になるという事で一所懸命ねじり鉢巻きの努力をするわけでありますが、本当に偉い人の場合には、その偉さがギラギラしなくなるという境地があるわけであります。それは仏道修行の究極のねらいだという事をこの巻では繰り返し繰り返し述べておられるという事が言えるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
 
質問
道徳的には親の躾とか学校で習った事とか自分の考えで行動としてはいい事をしてても、心の中では人を批判したりとか、それは行動には現れないのですが心の中で思って・・・。
  
先生
普通の状態では自分が二人いると言う事情があるんです。つまり、こうしなければいかん、ああしなければいかんと言う善玉と、ついつい悪い事をやってしまう悪玉と、両方が体の中にいると言うのが割合ありがちな状態なんです。仏道修行はその善玉と悪玉を一つにするというのがねらいです。仏教の言葉に「直下に二人なし」と言う言葉があるんです。この「直下」というのは現在の瞬間、現在の瞬間においてもう一人の自分がいないという事です。

この事が仏道の一つのねらいです。こういう状態を具体化するために坐禅をするわけです。自分の中に善玉と悪玉が同居していると、こうしなければと思うのだけれども、損得を考えるとついやらなくなる。それから、欲にかられて実行してみたけれども、後で後悔すると言う事もある訳です。仏道の世界はその善玉と悪玉を一つにしてしまって、やろうと思う事をすぐ実行できる、やるまいと思う事は実行しないで済ます事が出来る。そういう状態が仏道修行の目標です。

こういう状態が達成できると人生が楽しくなる。やりたいと思う事がすぐやれるし、やるまいと思う事はやらんで済ます事が出来るならばこれほど楽しい人生はない訳です。そう言う状態を具体化するために我々は、仏道修行をすると言う事が言えると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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