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正法眼蔵 仏向上事 15

浄因枯木禅師の説法について道元禅師が注釈されます。

浄因枯木禅師が六種類の感覚器官はすべて満足ではないと言っておられる言葉の意味は、仏道修行をした結果、師匠のお陰で、眼はむくの木の玉に換えられ感情的にものを見なくなった。鼻は竹筒に換えられいい臭いはいい臭いとして感じ、悪い臭いは悪い臭いとして感じる様になった。頭蓋骨は屎尿を汲む柄杓に換えられてしまって、どんな汚いものにも嫌だと言う感情を持たなくなった。どんないい事でもそれに溺れて慌てなくなった。

ここで「換えられた」という事を何回も使ったけれども、いったい「換えられた」という事の意味はどういう意味であろうか。この様に眼も鼻も頭蓋骨も無用のものに換えられてた状態であるから、六種類の感覚器官が全て十分ではなくなってしまっていると浄因枯木禅師は言われているのである。

六種類の感覚器官が満足でないところから、感情的に外界の刺激を受け入れる事がなくなり、ふいごの灼熱した火をくぐりながら、金属製の仏像としての立派な姿を現わし、大海原の中をくぐりながら、土製の仏像としての立派な姿を現わし、炎の中をくぐりながら、木製の仏像として立派な姿を現わしているのである。六種類の感覚器官の他、また心の動きも完全ではないという表現をとっておられるけれども、それは別の言葉で言うならば、人間は壊れた木の柄杓に過ぎないと言っているのである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

痴。愚痴
我々は何か失敗すると、いつまでも、いつまでもその失敗を考えている。「あんな事やらなければよかった」「あれさえなければ・・・」と言う様な事を、年がら年中考えている。しかし過ぎ去った事というのは決して戻ってこない。過ぎ去った時間を元に戻して、もう一度やり直したいと言う事は絶対できない。どんな偉い人でもできない。お釈迦様でも神様でも、過ぎ去った時間を元に戻してもう一度やり直すと言う事は絶対にできない。

我々の人生はそういう仕組みで出来ている。そうすると、過ぎた事はくよくよ考えてもしょうがない。だから今後そういう事がないように、と言う努力にならざるを得ない。そういう点では、愚痴っぽくグズグズといろんな事を悔やんだり、不平を言ったりする事を避けなさいと言う事。これも感情的に気持ちをふさいでしまって、もっと明るく考えればいい問題を、暗く暗く考えて不平不満で生きて行くと言うふうない生き方もあるわけ。

そういうものを避けろと言われている。釈尊の教えの中でも、この三毒を避けると言う事は、我々の日常生活においてかなり頻繁にある、また非常に役に立つ教えと言う事になるわけです。我々が坐禅をするという事は、自然にこういう状態から離れると言う事をやるわけです。「腹を立てまい、腹を立てまい」と思っていても、なかなか人間そうはいかない。あるいは「欲張っちゃいかん、欲張っちゃいかん」と思っていても、中々そうはいかない。「愚痴っぽくなってはいかん、愚痴っぽくなってはいかん」と思っていても、中々そうはいかない。

ただ、坐禅をやる事によって、体を調整し心を調整しておけば自然に腹立ちが起きなくなる。あるいは愚痴っぽくなる事がなくなる。そういう形で体の調整・心の調整が自然にできてくる。そういう意味で坐禅をやる事が大事になってくる。こういう事があろうかと思うわけです。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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