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正法眼蔵 仏向上事 13

洞山悟本大師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。

「仏向上事」という事態を使いこなすことができるような人はまさに、真実と一体になったのちもさらに真実と少しの区別もない状態で生きていく人がいるという事さえすっかり忘れてしまうのであり、仏向上人という言葉では表現できないような実態があるという事を知ることをも超越するのである。

この様に真実と一体になった人がさらに日常生活を淡々と続けていく状態があるという事を承知し、またそういうものを超越した人の事を本当の意味での「仏向上人」というのであり、それは真実を得た人という言葉で表現することはできない。

そこでどのような人が真実を得た人という言葉で表現することができないかという疑問が出てきた場合に考えてみるべきである。まだ真実を得ていない、真実を得る前の状態だから仏ではないというわけではない。また仏になったのちだから、仏になったのちという意味で仏ではないと言っているわけでもない。それでは仏よりもさらに偉くなったから仏ではないと言っておられるのかというと、そうでもない。

真実を得た後も、真実を得ようと得まいと、そんなことはまったく関係なしに、ごく当たり前の日常生活をおくって行かれる人々であるから、仏(真実を得た人)、非仏(真実を得ない人)というレッテルを張る必要はない。なぜ仏に非ずというかというと、その様な「仏向上人」というのは、仏らしい姿というものから脱け出しているからである。仏としての体、仏としての心というものを問題にしないほど真実と完全に一体になってしまっているから「非仏」と呼ぶのである。


     
              ―西嶋先生の話―

善悪というものがあんまり先に立つと本当のものが見えなくなるんですよ。ところが、世間ではそう考えていないんですよね。それは「自分は善人だ」と思い込んでいる人がいる。そうすると、「あいつはけしからん、こいつもけしからん」といって、人の非難ばかりしている人がある。そうかと思うと、「俺はどうせ駄目だ」と思っている人もある。そうすると、「俺は駄目だ、俺は駄目だ、どうせ駄目なんだからこのくらいは勘弁してもらえる」と言う考え方もあるわけです。

仏道はそういう考え方とは別なんですよね。善悪なんてそう簡単には割り切れない。とにかく一所懸命やるしかないと言う事です。そういう考え方になってくると思う。だから、今日仏教と言う考え方は割合珍しい考え方ですよ。日本の社会では中々見かけない考え方です。日本は仏教国だから誰でも仏教はわかっていると思っているけれども、仏教思想というものは今の日本の社会にはほとんどないです。

「正法眼蔵」に書いてある思想、仏教思想というものについては、我々の考え方とはすぐ食い違っちゃう訳です。だから、どうもここはおかしい、あっちもおかしいと疑いたくなる。「正法眼蔵」には善悪もなし、善悪を乗り越えるなんて言う事を言っているけど、いやそんな突拍子もない事を言っては困る。善悪があって我々は、善をやって悪を排斥していくと言うのが本来の教えだと言う事にならざるを得ない訳ですよね。

だけれども、釈尊が言われたのは、善といっても悪といっても、そう簡単に決めつけることは出来ないと言う考え方が基本にはあるわけです。現実というものは、もっと複雑なもっと味のあるものだと。頭の中で考えて、これがいい、これが悪いと言う様な事で簡単に色分けしても、問題の解決にはならんぞと言う事が仏教思想の基本にあるわけです。

※私の独り言。
「正法眼蔵」諸悪莫作の巻には、諸悪莫作(様々の悪をなすことなく)、衆善奉行(様々の善いことを実際に行うべきである)とあります。先生の教えと一見矛盾しているように思えますが、坐禅をし正法眼蔵を読めば先生の教えが何の矛盾もない事がよくわかります。そして正法眼蔵全巻を読むならば先生の教えは道元禅師の主張や釈尊の教えと寸分の狂いもないと確信できます。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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