トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏向上事 12

洞山悟本大師と僧との問答について道元禅師が注釈されます。

「仏向上事」という事を体験として自分が理解するためには、まさに坐禅と言う奥深い境地を学んで初めてその事が可能になるであろう。我々は仏道を勉強していく以上、真実を得た後もさらに真実を追及していく人があると言う事を承知すべきである。

仏向上人とは、悟った後も一所懸命坐禅をするという生き生きとした日常生活をすることに他ならない。しかしながら、このような仏向上の人があるという事は、洞山悟本大師のような過去における優れた仏教の先輩の言葉を取り上げ、また自分自身の日常生活における行動を例にとって初めて知ることができる。

このような形で「仏向上人」というものが日常生活の体験としてわかって来ると、なるほど真実と一体になって、しかも偉さが外に見えないという形で生きていく生活であるものだという事が分かり、言葉による表現を超越したところにごく普通の日常生活があり、しかもそれが仏道生活の最高のものであるという事がわかって来る。

ここで洞山悟本大師が説かれている衆僧への説法は、真実を得たのちも、真実と一体になって日常生活をやっていくような人になれと言っているのではなく、真実を得たのちもさらに真実と一体になって生きていく人と出会わなければならないと言っているのでもなく、ただ取り敢えず真実を得たのちも、真実と一体になって生きていく人がいるという事を承知すべきであると言っているのである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

だから現在できない、できるという事はどうでもいい。できないながらも、「とにかく毎日やらなければならんのだ」という固い気持ちを生涯忘れてはならない。それが仏道修行だと、そういう風に感ずるわけです。ですからその点では、私のいう事は大変妥協がないと言いますか、「どうも堅っ苦しくてやりきれない。もうちょっとおおらかで、たまには一杯飲んでても仏道には支障がないんだ」位のことは言ってもらいたいというお気持も多いと思いますが、仏道というものはかなり厳しいものである。

だから道元禅師が「正法眼蔵弁道話」の中で「法のうるほひなきことをうらみよ」と言っておられるわけです。「法のうるほひなきことをうらみよ」というのは、釈尊の説かれた教えはそう甘くない。だから甘くない教えという事で、「恨みに思うならば恨みに思っても仕方がない」という主張をしておられるわけです。ですから私もなるべくやさしいことを言って、なるべく皆さんに喜んでいただきたいという気持ちは強いのでありますが、それと同時に仏道修行に関連しては、毎日坐禅をやるという事が出来てこないと仏道修行というものとは何かがわからない。

そういう点で、わからない形でいろんな説明が付きますと、ますますわからなくなってくる。仏道以外のものを仏道として説くようになる。それをまた人様に話す。聞いた方もまた、仏道ではないものを仏道だと思い込んで一所懸命むなしい努力をする。こういう実情がかなりあるのではないかと、そういう風に感ずるわけです。ですから、私も決して自分が皆様に、聞かれて耳触りのいいお話をしているとは思っていない。

非常に聞きにくい話を申し上げているという事は十分承知しておりますが、やはり申し上げるべきことは申し上げなければならない、そういう風なことがあろうかと思うわけです。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


                    
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-