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正法眼蔵 仏向上事 10

大先輩である洞山悟本大師が説示されて言う。
我々は仏向上人(真実を得た後も、なお真実を求めて一所懸命生きていく人)があるという事を知らなければならない。

そこで僧問う
その仏向上人とは、一体どういう人を言うのでしょうか。

洞山悟本大師言う。
それは真実を得た人と言うふうな抽象的な名前で呼べる人ではない。
 
同じ質問について
雲門禅師言う。
「仏向上人」というものは、何か名前をつけて呼ぶわけにいかないし、それがどんな様子か説明しようとしてみても、それは出来るものではない。したがって何物とも表現し難いというのである。

保福禅師言う
真実を得た人というものは、言葉で表現する事のできない何かである。

法眼禅師言う
名前がなしでは不便だから、仮にそれを真実を得た人と呼んでいるに過ぎない。



              ―西嶋先生の話―

もう何回もお話したことではありますが、坐禅を毎日やるという問題についてお話したいと思います。なぜ坐禅を毎日やるかという事を何回も何回も繰り返しお話しするかと言いますと、私が仏教というものを人様にお話ししていることに関連して、一番の説く特徴は坐禅は毎日やらなければいかんという主張をしていることになるわけです。

最近では仏教が非常に盛んになってきたようで、坐禅をやる会もかなり増えてきたようですが、私の様に毎日やることを強調するという方は少ないという事が実情ではないかという感じがするわけです。私がなぜ毎日坐禅をやるという事をお勧めするかと言いますと、毎日坐禅をやらないと仏道というものがわからないと、こういう事が私の経験からは言えると思うわけです。

私は17、18の頃から坐禅を始めたわけですが、37才までの間、毎日やるという習慣はなかったわけです。つまり17、18才から37才までの間、坐禅を毎日やらなければならんという事をあんまり強く感じていなかったわけです。ですから、あちこちの坐禅会に行って色々とやることはやったわけですが、家へ帰ってくるとやらなかったわけです。まあ、家でやったにしても、毎日はやらなかったわけです。

ところが、たまたま37才の時から毎日やるようになってみて、ほんの3か月かあるいは半年ぐらい経ちますと、生活の様子が変わってきたという事実があるわけです。それまでは、やったりやらなかったりですと、どういう感じを持ったかと言いますと、やってもやらなくてもほとんど自分の様子には違いがないと、こういう感じを持ったわけです。後から考えてみますと、坐禅をやった時の状態とやらない時の状態とには、ほんのわずかの紙一重の違いではありますが、はっきり違いがあるわけです。

                       つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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