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正法眼蔵 仏向上事 9

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

洞山悟本大師が「わしの場合でも、しゃべらない時点が来た時に、初めて人の言葉が耳に入って来る」と言われている言葉の状況にこそ、まさに多少は話相手になるという力量がふくまれている。この様に多少は話相手になる力量を具えているという状況が「仏向上事」を体得した状態である。

それは真実をすでに得てしまった後も、その真実を得たという事が少しも外に目立たずに、ごく普通の状態で日常生活をし、日常生活を送っている状態というものに他ならない。たとえばそれは、しゃべっている時に現に何かを聞くという事を体得する事態でもあるのである。

この洞山悟本大師が述べられた「仏向上事」という事態は、過去七仏(釈尊以前に六人の真実を得られた方々がいて釈尊も含め七人の真実を得られた方々)の出現以前からの抽象的な出来事ではない。過去七仏自身が真実をすでに得てしまった後も、特別に目立つ事なくごく普通の状態で日常生活を送っていかれた事と全く同じ事態に他ならない。

※西嶋先生の解説
道元禅師は、ここの「仏向上事」の説明のところも非常に難しい形で問題を説かれています。ただ何を言おうとされたかと言うと、会話と言うのは、我々の日常生活のごく普通の行動を例にとられたまででありまして、真実を得たならば、他の人と様子が変わって誰が見ても偉そうだとわかるようなものではない。真実を得た後も、真実を得ない前も、そう特別の違いがない様にごく普通の日常生活が行われていくに過ぎない。そういう事を「仏向上事」の中で言っておられる訳であります。

このことは仏教を勉強して行く上においてかなり大切な事で、その点では、我々は偉すぎる必要はない。よく偉すぎる人が沢山おるけれども。新聞などには偉すぎる人と駄目すぎる人と両方書いてある。偉くもなく、偉くなくもない普通の人と言うのは新聞には出て来ない。なぜ出てこないかと言うと、そんなのは新聞に書いてもちっとも面白くないから。そこらに沢山いるからと言う事になる訳であります。仏道修行の場合には、偉すぎる必要はない。人が見ても「ああ、あの人は偉い」と思われる必要はない。偉いんだか、偉くないんだかよくわからないという生活の中に、本当の仏道修行があると言う事も言える訳であります。



          ―西嶋先生の話―

本音と建前とが分かれているところに仏道はない。
本音と建前とが一致した時にはじめて人間は安心する。本音と建前を使い分けて「この場合は本音、この場合は建前」と言う事では自分自身の気持ちが安定しない。今日の時代が割り合い不安定な時代と言われるのは何かと言うと、本音と建前を使い分ける事が当たり前だと思っている。大体が人に話す時には建前をしゃべって、自分がこっそりやる時は本音でいくと言うのが大体の生き方。

その事が今日の社会が、わり合い不安定になっている大きな原因ではなかろうかと思います。だから本音と建前とを一つにして、本音と建前を乗り越えて自分自身を見い出すと言うのが仏道修行と言う事になる。仏道の世界においては、本音と建前の使い分けはない。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名 幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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