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正法眼蔵 仏向上事 6

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師の注釈は続きます。

この様な具体的な、舌や耳や眼や体や心とかいうものを素材にして我々の日常生活が行われているのであるから、人が話をしている時には、相手の話が耳に入らないと言うごく普通の日常会話があり得るのである。舌や耳や体や心とかという素材だけを取り上げて、それが会話の実態だと主張してはならない。

人の話を聞いていないということが、自分が話をしているという事と一致しているという事ではなくて、ごく具体的に自分が話をしている時には、人の話が耳に入らないと言うだけのものである。我々の大先輩である洞山悟本大師が「人が話をしている時には、人の話を聞く事ができない(耳に入らない)」と言われているけれども、その言葉の一切は、藤の木の枝がつるで他の藤に巻きついて、藤と藤とが絡み合っている状態である。

また同時にそれは言葉で簡単に説明できないきわめて具体的な複雑な内容が様々に絡み合った実態であるから、藤が藤に寄るという形容も当たっていると同時に、日常会話を「そもそも」というふうな形で説明することはなかなか難しい。別の言葉で言うならば、日常会話が日常会話に縛られていると言う状態でしかない。



            ―西嶋先生の話―

仏教の基本的な考え方として苦諦・集諦・滅諦・道諦と言う四つの考え方があります。その苦諦・集諦・滅諦は比較的わかりやすい。なぜかと言うと頭で考えて理解できる立場だからです。苦諦は頭でものを考えた場合に出て来る立場。集諦は感覚的に外界の世界を受け入れる物質を基礎にした考え方。滅諦は頭の中で考えた問題と感覚的に捉えた物質の世界とが交差する世界、つまり人間が何をするかと言う行いの世界であると理解できる。

ただ道諦とは何かという事になるとこれは大変わかりにくいわけです。なぜかと言うと一切を含んでいるからです。ですから道諦の中には、苦諦の立場も、集諦の立場も、滅諦の立場も含んでいると同時に、それだけではないこの世の全てを含んで道諦と言う捉え方をするわけです。ですから、現実そのものとか、宇宙そのものとか、正しさそのものとかと言う内容を持っておりますから言葉で説明する事が出来ない。

だから頭で理解しようとしても中々理解できないという問題があるわけです。そこで道諦と言うものの身近な実体が何かと考えていきますと、坐禅がまさしく道諦の立場そのものだという事が言えるわけです。坐禅をやっている時の境地を我々は言葉で説明する事が出来ない。したがって「正法眼蔵」ではよく「大にあらず、小にあらず、有にあらず、無にあらず」と言う説明が出てきます。この言葉を聞いて「ああ、わかった」と言う人は少ない。「一体何を言っているんだろう」という事になるわけです。

                       つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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