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正法眼蔵 仏向上事 3

洞山悟本大師と僧の問答について道元禅師が注釈されます。

今ここでいうところの「仏向上事」に関する言葉は、洞山悟本大師が初めて言われたところである。そして、洞山悟本大師以外の真実を得られた方々はいずれも、洞山悟本大師の言葉を学ぶ事によって、真実を得た後もさらに日常生活を通じて真実を求めていくという事を具体的な日常生活の中で体得することができたのである。

まさに銘記すべきである。洞山悟本大師の言われた「仏向上事」というものは、その原因が過去にあって、自然にそういう結果が生まれてくるという事ではない。過去の行動が原因になって結果が出て来たという事でもない。日常生活のごく普通の会話の中でも、自分が話している時には人の話が聞こえないと言うきわめて具体的な日常生活のあり方を、体験を通してしっかりと掴み、そういう問題の究極に触れていくと言う事が大切なのである。

仏道修行者が真実と一体になって、しかも真実と一体となったまま日常生活を淡々と生きていくと言う状況が分かって、初めて「仏向上事」を体得した事になるのである。日常生活の普通の会話を通してでなければ、真実を得た人がさらに真実と一体になって生きていくと言う状況は掴む事が出来ない。高遠な理論を述べていても「仏向上事」というのは分からない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は信仰は頭ですると言いましたね。その辺をもう少し詳しく教えてください。

先生
普通、宗教というものを考えますと、心の問題、魂の問題と言う捉え方が一般的なんです。そうすると、宗教を信じる事が宗教の一番の基本になるわけです。それからまた、願い事を叶えてもらう為に祈ると言う事もある。だから、信じるとか、祈るとか、そういう心の働きが宗教の実態だという宗教観が普通の宗教(仏教以外の宗教)の宗教観です。

ただ仏教では信じる事も重要視するけれども、信じるという事態をどういう形で示すかというと態度で示すという事。人間がどう体を動かすかと言う事が宗教の実体だという思想が仏教思想です。だから信じる事の事実は何によって確証できるかと言えば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばした状態でジッとしているという事が信じていると言う事の実態だと、そういう主張があるわけです。だからそういう修行がなしに、信ずるという事だけで宗教が成り立つと言う思想と仏教思想とは少し違うわけです。

質問
信仰というと、多分に感情的なものがある様な気がしますが・・・。

先生
うん、ですからそう言う宗教観もあるわけですよ。むしろそういう心の問題が一番大切なんだ、という主張も普通の宗教ではほとんどがそうなんです。ただ仏教と言う信仰は、そういう一般の宗教観と別の立場に立っているという事が言えると思います。だから仏教が修行と言う事を非常に重要視するという事と関係があるわけです。「信ずる」という事が難しいんですよ。信ずるという事が誰でもできるかと言うと中々できない。

「自分は信じました、信じました」と言う事で、一所懸命自分の尻を叩いて「信じよう、信じよう」と思っても、信じられない場合はいくらでもあるわけです。ただ足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている時には、否応なしに信じた状態と言うものが生まれてくる訳です。だからそういう修行法のある方が、宗教としてはやさしいという事が言えるわけです。信じようと信じまいと、とにかく足を組み、手を組み、背骨を伸ばせばそれまでだ、とこういう事になる。それが仏教思想の一つの特徴です。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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