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正法眼蔵 坐禅箴 50

道元禅師がつくった「坐禅箴」は続きます。

坐禅によってそこに現れてくるものは、きわめて自然な体験である。作為的にこうしよう、ああしようということで生まれてくるものではなくて、何の意図を持たなくても、ただ足を組み、手を組み、背骨を伸ばせばすぐに現れて来るものであるから、間違っている、間違っていないと言うふうなものは超越してしまっている。

そして、いいとか悪いとかと言う差別を乗り越えた直接の体験であるから、何かに寄りかかる、何かに依存していると言う関係ではなくて、その直接の体験そのものが現に独立独歩にそこにあるということであり一切のものを超越している。

坐禅における体験というものは、正しいとか正しくないとかという問題を一切超越したものであるから、何かを意図的に努力してつくり達成したという事ではない。そういう意図とは無関係にただ努力している状態である。

坐禅というのは、水が澄んで底までが完全に見える状態の中で魚が自由に泳ぎ回って、まさに魚が本分を発揮している姿である。空が無限に広く、どこまでも青空が広がっている状態の中で鳥が自由に飛び廻って、まさに鳥が本分を発揮している姿である。
            
            「正法眼蔵坐禅箴」
            1242年旧暦3月18日
            興聖宝林寺において沢山の人に説示した。



              ―西嶋先生の話―

今日では坐禅というのは非常に衰退しているから、坐禅をするのは変わり者だと思われている。ただ人間と言うのは、時々人間の基準に立ち帰らないと、人間の状態から外れてしまう場合がわりあい多い。普通は人間の状態から外れてしまって、自分たちは神様ではないんだからこの程度はしょうがないと思って、苦労しながら日常生活を生きている場合が多い。
  
ただ人間は人間らしくあるという事、これが人間として幸福に生きるための最低限の条件だという事は言える。魚が魚らしく泳いでいる、鳥が鳥らしく飛んでいるのと同じ様に、人間は人間らしく生きなくてはならんと言う事があるわけです。坐禅はそういうためにあるもの。我々がいくら気持ちが焦って、人間らしく生きたいと思ったところでどうにもならない。そんな事は絶対に達成出来ない。
  
だから逆に体の状態から、坐禅という形で人間らしい状態に我が身を置いて、それを基準にして生きていく事によって初めて人間らしい生活ができるようになると言う事に過ぎない。そう言う事が言えようかと思うわけであります。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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