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正法眼蔵 坐禅箴 48

宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

人の価値を見抜くだけの眼力がある場合には、どの人が真実を得ているか承知する事が可能なはずである。宏智正覚禅師の優れた素質や優れた力と言うものを十分に承知しておられた天童如浄禅師は、人の価値を知り、真実を得た人が誰であるかということを十分に知るだけの力量を具えていたという事ができる。そこでまさに知ることができる、洞山良价禅師の立てられた宗派の中に釈尊と同一の人格に達した人々がおられると言う事を。

※西嶋先生解説
今日、道元禅師が立てられた宗派を曹洞宗と呼ぶわけでありますが、その「曹洞」の「洞」という字は、洞山良价禅師の「洞」の字をとったと言われている方であります。

道元禅師の注釈に戻ります。
現在は宏智正覚禅師が生きておられた時代から八十余年を経過している。宏智正覚禅師を見習って自分(道元禅師)も「坐禅箴」を作ってみた。現在は1242年の旧暦の3月18日である。今年からさかのぼって宏智正覚禅師の亡くなられた1157年の旧暦10月8日に至るまでの日数を数えてみると僅か85年である。このような事情から自分がつくった「坐禅箴」は次なようなものである。



              ―西嶋先生の話―

今日は仏教関係の言葉として教・法・行・道と言う言葉についてお話しておきたいと思います。これらの言葉の上に仏と言う字をつけますと仏教・仏法・仏行・仏道と言う言葉になります。この四つの言葉もどういう区別があるかについて、四諦論的な考え方で理解していくと比較的わりやすいのではないかという気がいたします。

「教」というのは、教えと言う事でありますが、教えという事は、文字や言葉で表された釈尊の教えと言う意味が強いわけであります。ですから、理論、哲学から見た釈尊の教えと言う捉え方が中心をなわけであります。仏教と言う思想は非常に現実的な教えであります。だから、単に理論的なものだけではないわけです。しかしそれと同時に、言葉で表した教え、文字で表した教えも、やはり仏教の重要な内容を成していて「教」と言う字を使った場合には、その理論的な面が強く出ているという事が言えると思います。

「法」というのは、実態とか実在と言う意味であります。単に言葉や理論と言う面からの捉え方ではなしに、もっと具体的な、もっと客観的な、もっと物質的な面から捉えたものを「法」と言うわけであります。どうにも動きのとれない実態、規則や秩序と言う捉え方が強いわけであります。「万法」「諸法」と言う言葉になった場合には、我々が住んでいるこの世界そのもの、この世界を形成している沢山の具体的なものと言うのも、「法」と言う言葉で表されるわけであります。
  
「行」というのは、行いと言う意味です。人間の体を動かし、心を動かして行う様々な動作や行動を「行」という言葉で表しています。

「道」というのは、釈尊の教えと言う意味も入っています。我々が住んでいる実態的な世の中と言う意味でもあります。我々の行動、倫理、道徳と言う面の行動と言う意味もあります。それら一切を含んだ真実というものも「道」という言葉の中に含まれています。
  
そういう点では教・法・行・道という言葉は、いずれも非常に似た様な意味を持っていてなかなか区別がつけにくいわけであります。しかし今述べたような、四諦論的な考え方を基準にして区別していきますと「正法眼蔵」を読んだ場合に「正法眼蔵」の意味が取りやすくなり、理解しやすくなろうかと思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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