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正法眼蔵 坐禅箴 47

宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

宏智正覚禅師の書かれた坐禅に対する戒めと言うものは以上の通りである。過去における様々な時代の長老の中で、宏智正覚禅師の様に坐禅というものの中身を的確に捉えておられる「坐禅箴」は他に見当たらない。

諸国には様々の仏道修行をしている人々がいるけれども、いま仮に宏智正覚禅師が書かれた坐禅箴と同じ程度の坐禅箴を書こうとするならば、たった一回きりの生涯だけでなしに、仮に二度三度という生涯にわたって全力を尽くしたとしても、このような坐禅箴を述べるという事はなかなか難しいことである。現在では諸国を訪ねてみても宏智正覚禅師ほどに優れた坐禅箴をつくり得る人は見当たらない。坐禅箴としてはこの宏智正覚禅師の書かれた坐禅箴が、非常に優れたものとしてたった一つあるに過ぎない。

亡くなった自分(道元)の師匠である天童如浄禅師が法堂に上がっての正式の説法の際に常々よく言われた。「宏智正覚禅師は古仏(永遠の意味を持った真実を得た人)である」と。そして天童如浄禅師は宏智正覚禅師以外の人々に対して、古仏という言葉でその人を呼ぶという事は決してなかった。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は「仏教を習ってて本当に良かったな」とこの頃感じて、行き詰まらないという感じよりか、ほんとに救われるなあという、そこら辺の息抜きというもの、安らぎというものを先生のお話の中でいつも感じさせていただいています。

先生
うん、そうですね。それで、その点での生活上の差し迫った苦しみについては日本人はわりあい恵まれているんですよ。この間イギリスから二人の若い女性が日本に来て、その人が坐禅の会があるかって電話をかけてきたんですね。私はうっかりして日取りを間違えて別の日を教えてしまったものだから、その時間に行ってその二人に会ったわけですよ。

その時にその二人が言っていましたのは、「日本に来るだけで非常にありがたい、それは向こうの本国ではとにかく気持ちが落ち着かなくて、不安で不安でしょうがない、とにかく日本で生活しているだけでそういう不安から解放されるという点では実にありがたい」と、こういうふうに言っていました。

だからその点では、我々がいかにありがたい国に住んでいるかという事は、事実としてはっきり言えると思います。それと同時に、世界の文明というか、世界の思想というものがいかに苦しい場面に直面しているかという事、これも同時に考えざるを得ないという問題があると思います。

ですから向こうの人の仏教の勉強の仕方というのは、思想問題よりも坐禅をしたいという事の方が大きいです。向こうから旅行に来ている人で、教えを受けるという事は「坐禅がしたいけれども、どっかそういう場所がないか」という質問の方がはるかに多いです。この点は日本における仏道の求め方、坐禅の求め方と逆だと思います。

日本の場合には、「仏道が勉強したい。その付けたりに坐禅もやりましょう」という考え方ですけど、向こうの人は「坐禅をやらないといても立ってもいられないから、どっか坐禅をやらせてくれる場所がないか」と、こういう捉え方で坐禅を見ています。ですから向こうの人にとっては仏教思想というよりも、まず坐禅がやれるかやれないか、坐禅をやっていることが途轍もない救いになるという現実がはっきりあると思います。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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