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正法眼蔵 坐禅箴 46

宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

鳥がこの空というものを飛ぶならば、空を飛ぶという事だけがある。しかも空を飛ぶということは、こういうものだと言葉では説明がつかない。鳥が空を飛ぶという事は宇宙そのものである。宇宙とは何かといえば、鳥が一所懸命に空を飛んでいる事実そのものである。

この飛ぶという事が一体どのような大きさのものであるかという事がわからないとしても、頭の中で考えた事と違う表現でその中身を表現してみようとするならば、「はるかかなた」という言葉が当たる。また別の言葉で言うならば、ごく身近な足元に糸くずが落ちていないという事でもある。

周囲の世界が飛んでいるという事と、鳥が飛んでいるという事とは同じである。鳥が飛ぶという事は空が飛ぶという事に他ならない。鳥が飛ぶという事は一体どういうことかという事を勉強してみると、別の言葉で言うならば「ただここにいる」という事である。

※西嶋先生解説
仏教思想というのは非常に具体的な思想。だから頭の中で考えて出来上がった思想ではなく、ごく具体的に我々の生活というものを基礎にして考え出された思想であります。だから「この場所」という事を大切にする。宇宙の大きさ、無限の宇宙とは何かといえば、今自分がここにいるという事実に他ならない。

道元禅師の注釈に戻ります。
これが不動の姿でもくもくと続けられている坐禅の要点である。この世の中には様々の人が様々の生活をしているけれども、それらの様々の人の様々の行いというものも、その本質は何かといえば「ただここにいる」という事をそれぞれの人がそれぞれに表現しているに過ぎない。



              ―西嶋先生の話―

八聖道五番目の正命というのは、生活の手段を正しくするという事。命というのは生活という意味。職業に入るかどうかはわかりませんが、例えば人のものをこっそり頂いて自分のものにするという事を商売にしているというような人も、数は多くないけれども、いないとは言えない。

というのは、わが国にも刑務所というものがあって、そこへそういう選ばれた方がたくさん入っておるわけであります(笑)。そういう人がいるという事は、人間の職業に関連しても正しい職業を持てというのが正命という言葉の意味であります。

八聖道六番目の正精進というのは、正しく努力するという事。よくこの会でも話に出ますが、人間は生かされているんだというふうな考え方も勿論ありますが、それと同時に一所懸命努力しなければならないというのも我々のごく当たり前の状態であります。

仏道というのは、坐禅をして体と心とを正しく調整して、その体、心がやらなければならんと感じさせてくれるところを一所懸命にやるという事であります。だから仏道の基礎には努力すること、一所懸命やるという事が含まれているわけであります。口をあいて上の方を眺めておれば、棚からぼた餅が落ちてくるはずだという事は我々の現実ではあまり可能性がない。

だからその点では、自分自身の人生を築こうと思うならば、努力しなければならんという事があるわけであります。その努力も正しくなきゃならんというのが正精進という言葉の意味であります。

八聖道七番目の正念というのは、心の状態が正しということ。

八聖道八番目の正定というのは、今日の生理的な知識から言うならば自律神経の均衡(バランス)ということ。

この「八正道」も、苦・集・滅・道と言う四つの分類で言う事が出来ると思います。苦諦は正見・正思惟(ものを考える事)。集諦は正語・正業(人間の行いの外見)言葉にしても行動にしてもはたから見てどの様に見えるかと言う事が問題にされている。滅諦は正命・正精進(実際の生活)。道諦は正念・正定(坐禅と言うものを心の面と体の面から眺めた)今日の生理学的な知識から言うならば、自律神経のバランスと言う事です。

ですから原始仏教の「八正道」もやはり苦・集・滅・道と仏教に特有な基本的な考え方を基礎にして分類されたと見ていいと思うわけであります。
  

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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