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正法眼蔵 坐禅箴 45

宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

また坐禅の境地を譬えて言うならば、空が広くてこれという限界がないような状態であり、遠い空を悠々と鳥が飛んでいるような状態である。この場合の「空が広い」というのは、我々が住んでいる現実の空というものを言っているわけではない。我々の普段見ている空というものは、いくら広いといっても無限の広さを持ったものではない。

まして、あそこ、ここというふうに我々の頭で考えることのできる範囲でそれを全体という捉え方で捉えた空というものは、ここにいう無限の広さを持った空というものとは別である。隠れているとか見えているとかという問題の起きえないものを、無限の広さを持った空というのである。

※西嶋先生解説
この無限の広さを持った空というのも、やはり坐禅の中身を説いておられるわけで、坐禅の中身というものは、見えるとか見えないとかという問題ではない。その点ではただ黙って坐っているという事が坐禅の中身であって、何かが分かった、何かが見えた、何にも見えないというふうな問題ではない。よく「坐禅をやると妄想が起きて困ります」という質問を受けるし、「いつまでたっても何にも出てこない」という質問もある。

妄想が出て来た、出てこないというふうなことは、どっちでもいいこと。「何にも出てきません。さっぱりわかりません」というふうなのはどっちでもいいこと。ただ坐っていることに意味があるというのが坐禅。こういう考え方というのは世間一般では中々お目にかからない。ただ仏道というのはそういうもの。我々は頭の中で考えて「これはいい、これは悪い」というふうなことを言っていられる範囲の事は、たいへん大事かも知れないけれどもそう大したことではない。

我々の人生そのものというのは、もっと大きなものもっと限りのないもの。だからそういう限りのない人生を生きるためには、限りない原理というものが必要になって来る。そこで勉強するのが仏道という事になるわけであります。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

八聖道三番目の正語というのは、言葉が正しいという事。我々が日常生活において口でものを言うという事。これはかなり重要な役割を果たしているわけであります。人と人とが行きあうと「おはようございます」とか「こんにちわ」とかというわけであります。「おはようございます」とか「こんにちわ」とかという事を言えばごく普通なわけでありますが、どうも相手が気にくわないというような時には黙って挨拶しないという事もある。

そうかと思うと「こんなことしちゃだめじゃないか」と挨拶の代わりに叱る場合もあるし、その点では、人間の口の利き方というものも色々なわけであります。人を誉めるという事がかなり人間関係をよくする上で大事でありますが、人の顔さえ見れば悪口を言う、けなすという習慣の人も決していないとは言えない。そういう点では口の利き方、ものの言い方というものを正しくせよというが正語という言葉の意味であります。

八聖道四番目の正業というのは、単に口の利き方だけではなしに、人間のあらゆる行いを正しくするという事。業というのは行いという事。だから手の動かし方、足の動かし方、そういう物を正しくするという事が正業であります。そういう点ではお酒に酔って駅のベンチで一晩明かすというふうな事と、自分の家へ帰ってゆっくりと自分の家の布団で寝るという事とどっちがいいかというと、まあ、ものの見方で色々ですが、ただ両方が同じでないという事は言えるわけです。

各人の趣味でどっちが好ましいという選択があるわけです、それと同時に、仏教の立場から見ればどっちが正しいという判断の違いもあるわけであります。この世の中の人間のやる事というのは千差万別。ここで想像してみようとしても、億分の一も想像できない、それほど人間の社会というのは複雑で、人間のやる事というのは色々あるわけです。ただそのやり方には正しい、正しくないの違いがある。だからそういう場合には正しいことをやりなさいというのが正業。
                       つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。69歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」幽村芳春 平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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