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正法眼蔵 坐禅箴 44

宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

坐禅の中身は、結局その岸の上に立って測量する足場になる様な岸というものがあるわけではない。またそういう無限の世界というものが中に浮かんでいるような空間というものもない。そういう膨大な世界というものが下に沈んでいって底に行き着くという事でもない。坐禅の中身は一体どんなものだろうと考えてみる人もいない。

※西嶋先生解説
坐禅というのはこういうもの、坐禅をしている自分自身もいないし、中身も何もないし、ただ坐っているという事。その大きさが宇宙の大きさとまったく同じだと。

道元禅師の注釈に戻ります。
坐禅について考える事ができるか、考える事ができないかと言う問題を論議してみるならば、先ほど例に引いたような底まで徹底して澄んだきれいな水のようなものであり、それはこの世の水と同じものではない。限界がなく、その大きさを測ろうとしても測る事のできないような境涯である。坐禅の中身というのものは、いまほど例にとったところの魚が泳いでいるのと同じだというふうに譬えることができる。千里、万里というふうに非常に長い距離というものを誰が測る事が出来よう。どの位の大きさだというふうな事を誰が知る事が出来よう。

(ここでまた道元禅師が論述を現実に戻される)その様な途轍もない大きな世界の中で悠々と動き回っているという事はどういうことかと言えば、自分の体全体で鳥の真似をしないで坐っていることだ。人間は体全体で人間らしく坐禅をしていると言う事に他ならない。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

八聖道二番目の正思惟というのは、考えが正しいという事。考えが正しいというのはどういうことかというと、一番簡単な例をとれば、1+1=2という事。ところがちょっと気の利いた思想の本を読むと「我々は常識的には1+1=2であると考えがちであるけれども、実は1+1=4であり5であり無限である」というふうなことも書いてある。まあそういう考え方もあるかもしれないけれども、我々の日常生活においてごく普通に考えるならば1+1=2.この1+1=2という考え方が誤っていないという事、これが正思惟という言葉の意味である。

我々はよく誤解とか考え違いとかをするわけです。そういう点ではたとえば月の世界に人類が到達できたのは、科学の積み上げによって到達できたわけでありますけれども、漠然と考えるならば、人間の超能力で行ったというふうな考え違いも起こりがちであります。そしてそういう超能力というものがこの世の中にあって、それによって人間は何でもできるはずだというふうな考え方もないとは言えない。

そういう考え方というのは、ものを考える手順で飛躍がある。飛び越えているわけです。手順を追って手堅く考えていけば、そういう間違いを犯さないで済むわけでありますが、えてして人間の考え方というのは粗末になりがちだから、飛び越えたり、横道にそれたり、いろんな考え上の間違いをしながら、しかも正しいと思い込むという事がわりあいあるわけであります。そういう事の内容という事を二番目に掲げられた。
                             つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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