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正法眼蔵 坐禅箴 43

宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

たとえば、川の底の砂や小石がすっかり見えるほど水が澄んでいる小川で魚が悠々と泳いでいる、そういう状態が坐禅の中身である。坐禅の形容としての水がきれいだという事の意味は、この世における水というものはそう徹底してきれいなものではない。何が徹底してきれいかと言えば、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている時の我々そのものが、徹底してきれいな状態である。

まして器の中にある水は、それがどんなにきれいであっても、坐禅の時の徹底してきれいな状態とはとても比べものにならない。坐禅の境地というものは、もうここで終わりと言う限界がない。宇宙の原則に従った形で坐っているのであるから、坐禅をしている各人の大きさと言うものは宇宙の大きさと全く同じである。そう言う無限の大きさでジ-ッと坐っている事を、底までも完全に見えるところの清い水というふうに譬えているのである。

魚が水の中を泳ぐと同じ様に、坐禅をしている人がその境地の中であちらこちらと動いて回ると言う心境にあるならば、その動き回るという事はないわけではない。魚があちらこちらと泳いで行けるのと同じ様に、坐禅の境地もその大きさが無限であるからその無限の世界の中で自由に動くという事はあり得る。その様な形で坐禅の境地は限りなく広がって行くものであるけれども、その広がりがどの位の大きさかというふうに測ってみようとすると測りきれない。ここで終わりと言う限界がないからである。



              ―西嶋先生の話―

きょうは仏教関係の重要な言葉として「八聖道」という言葉についてお話しておきます。
仏教は時代で区分しますと、原始仏教という時代があるわけでありますが、その原始仏教の時代に説かれた非常に大切な教えとして、八聖道という教えがあるわけであります。八聖道というのは何かといいますと、1正見・2正思惟・3正語・4正業・5正命・6正精進・7正念・8正定。

八聖道最初の正見というのは、仏教用語に見解(けんげ)という言葉があって、今日の呼び方は見解(けんかい)、ものの見方、考え方という事。今日のやや難しい言葉で言えば「人生観」という言葉がある。それからまた「世界観」という言葉もある。この世の中をどう考えるか、あるいは我々の人生をどう考えるかというのが見解(けんげ)とか見解(けんかい)という言葉の意味であります。

二番目の正思惟というのとどう違うかというと、正見は考え方の基礎、正思惟は考えること自体。だから正見の方が正思惟の基礎、考え方の方向を決めるものという意味であります。その考え方の方向を決めるもとが正しくなければならないというのが正見という言葉の意味であります。

具体的に言いますと、釈尊が正しくないという事で否定された代表的な考え方が二つあるわけであります。今日の言葉で言えば理想主義、それからもう一つは唯物論、釈尊はこの二つを正しくないとして否定された。ところがこの二つの考え方というのは、今日の社会に生きている人の大部分がこの二つのどっちかを正しいと考えているのが実情であります。

たとえば理想主義というふうな考え方については、昭和20年以前には非常にはやった。一番正しい、一番信頼するに足りる考え方というふうに見られていた。つまり理想というものを掲げてそれに向かって一所懸命努力する、これ以上に正しいことはないというふうに考えられていたわけであります。

ところが昭和20年8月15日に日本が敗戦というものを経験しますと、今までの考え方は全部正しくないというふうな批判が起こってきたわけであります。したがって昭和20年以降、人々が正しいと考えて信じてきた考え方は、物を中心にして問題を考えるという行き方であります。実際にこの世にあるのは物である、物質である、だから物、物質を中心にして問題を考えていくというのが正しいというふうに主張されたわけであります。そういう立場が唯物論という考え方であります。

ところが釈尊は、この二つの考え方は両方正しくない、この二つの考え方のどっちかを信じて生きていくと決して幸福にならんという事を断言された。釈尊の教えが何かというふうなことを一番単純に、簡単に表現するならば、理想主義の考え方と唯物論の考え方はともに間違いであるという事を断言されたところにあるわけであります。そういう意味で正見――正しい考え方を持たなければならないと八聖道の最初に説かれたわけであります。
                       つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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