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正法眼蔵 坐禅箴 42

宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

何らかの言葉の中に規則を見つけ出して、それに従って一所懸命行動してはならない、これらの形容は坐禅における自分自身で自分を照らしている坐禅の境地を言っているのである。坐禅の中身と言うものは、主観と客観という二つの対立関係ではない。二つのものに分かれていないから、どちらがよくてどちらが悪いというふうな選択はない。

そしてこの様な事態を渾然一体の素晴らしさとして、これを非常に尊いたった一つのものというふうに捉えて、それを保持して今日に到達したし、理屈ではないけれどもとにかくわかったというふうな形で保持して今日に到達しているのである。けれども自分(道元)はどうもその事がよく分からなくて疑問が出てしょうがない。 
  
※西嶋先生解説    
ただ、これは現実です。我々の人生というのはこう言うもの。だから「何もかも分かりました、もう分からない事は何もありません」と言うわけには行かない。仏教の教えはこうだああだという事で一応理解がついた後も、我々の日常生活においては「本当にそうかな」と言う感じは常にある。この様に坐禅の中身と言うものを捉えておられる訳であります。



           ―西嶋先生にある人が質問した―
   --つづき

質問
それは客観的な値打ちのものじゃないですね。その人に対してですね。だから私の人生観の範囲だけでしょう。

先生
いや、そうじゃなくて、その坐禅によって得られるものというのは、宇宙と同じものなんですよ。

質問
そこがわかんない。

先生
それは、頭がよくて学校に入ったとか入らんとかという事とは別に、どう生きていったらいいかが分かっておるという事ですよ。だからそういう点では、頭のいい人はいくらでもいるし、いろんな学校を出て活躍している人はいくらでもいますけれど、宇宙というものの流れがよくわかっておって生きておる人というのはわりあい少ないですよ。仏道が説いているのは、頭がよかろうと悪かろうと、どういうふうな社会で生きていようと、宇宙の流れというものが分かっている人間というのは、絶対の価値があるという考え方ですよ。

質問
それは大変なことですね。

先生
いや、それはもう坐禅をやっている時の感じという事に他ならない。「大変なこと」というよりも、坐禅をやって、坐禅を好きになれば、坐っておる実感というものが宇宙の実感なんですよ。だからそれを身につける、それを気持ちとして持っているという事がもう最高の智慧だという事です。それは頭がいいとか頭が悪いとかとはまた別の問題です。だから「利人鈍者をえらぶこと莫れ」というふうな表現になるわけですよ。

質問
坐禅してて、宇宙の流れなんて、そんな素晴らしいものはわかりますか。

先生
だからその点では、宇宙の流れと同じ体の恰好をしておるという事ですよ。だから足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている体の恰好というものが自分自身のあるべき姿なんです。で、あるべき姿に我が身を置いておるという事は、我が身が現に存在するという根源と一つになっているという事ですよ。

※私の独り言
もしも坐禅がなかったら今頃、私はどうなっていたでしょう。あっちへぶつかりこっちへぶつかりして真暗闇の中をさまよっていたと思う。色々な本に色々な人がこうすれば良いああすれば良いと色々と書いています。しかし頭の中で考えれば理想はどの様にでも書けますから、書いてある事とその人の実際の生活とが必ずしも一致しているとは限りません。むしろそれを信じたばっかりに苦しい人生を生きるという事も少なくありません。私は坐る時いつも思います、ああ釈尊も達磨大師も天童如浄禅師も道元禅師も西嶋先生もこの坐禅をして一生を終えられたんだなと。私もマネしていればいいんだと・・・。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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