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正法眼蔵 坐禅箴 39

宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

我々がものを考えるという事と何かがわかるという事とは一つのものになっていて、人に教えられたからわかると言うものではなしに、考えるという事もわかるという事も乗り越えたところに、自分の力でわかってくるものがあるという事に他ならない。その何かがわかってくると言う事が、抽象的な心の中だけの問題かというと決してそうではない。

この宇宙がどういうものかとわかるということの実態は、眼で見える、耳で聞こえる、手で触れるというふうな外見の形として知られてくるものであり、もっと具体的に言うならば、そういう形の例としては、高くそびえている山であり、滔々と流れている河であるという見方も出来る。この山河は実に微妙な存在である。非常に細やかであると同時に、非常に素晴らしい性格のものである。人間の立場から言うならば、自然の環境を使いこなす場合にこそ、初めて人間としての活発な行動があり得るのである。

黄河の上流の急流を越えると鯉が龍に変わると言う伝説がある。それは、仮に生身のくだらない人間であっても坐禅をすれば仏になると言う事を言っているのである。坐禅をやる事によって、ほのぼのとしてわかってくる何かと言うものは、とりもなおさず宇宙全体(山や河など)を我が身の中に取り込んで、自分自身の努力によって宇宙全体の実体がわかってくると言う事でもある。

我々の周囲にある山や河は、我々に親しく呼びかけてくれるのであるけれども、そのことがわからないならば、それ以外のことがほんの爪の先ほども分かるはずがない。その点では、「どうもわかりません、全くわかりません」と嘆く必要はない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき

質問
ですから、そういう心境になられることは決断力もさることながら、ある意味においては幸せだと思いますが、私はなれないから、まだ娑婆っ気があって。

先生
うん。それと同時に私がいかにバカであるかという事ですよ。私の僧侶としての名前は「愚道(愚かな道)と書くんですけど(笑)、私は腹の底から愚かな人間だと思っているから、そういう名前を付けていただいたわけで、そのことは私自身がいかにバカであるかという事ですよ。世間はわりあい利口な人が多くて、バカな人がわりあい少ないという事を意味していることでもあると思います。

だから、バカの数が少ないという点では確かに少し変わり者だと言えることになるかもしれないけれども(笑)、それは単にこの世の中にバカな人間が少ないというだけのことであってね。皆さん利口だから苦労するんです。利口でないと苦労がなくなっちゃうんです。これはほんとにそうです。皆さん利口だから苦労が多いんです――と思いますけど(笑)。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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