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正法眼蔵 坐禅箴 38

宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

坐禅によって何かが分かると言う状態というものは、非常に微妙なものである。その内容というものを考えてみるならば、いまだかつてほんの僅かと言えども、物事を差別してこちらがいい、あちらが悪いという考え方がないということである。

※西嶋先生解説
我々は今日の文明で、ものを考えるという人間の能力を非常に大切にするわけであります。このことは大切なことで、我々は今日西洋文明を学んで、今日われわれが享受しているような豊かな生活というものは、ものを考えるという人間の能力から生まれてきておるわけであります。

今日われわれの生活を支えている豊かさというものは、化学が発達して、それを基礎にした産業が大きくなって、そういう産業の偉大な生産力というものが我々の生活を潤してくれるという事があるわけであります。だから、ものを考える能力というものが人類の生活にいかに寄与しているかという事、これははっきりと否定できない事実という事が言えるわけであります。

ただそれと同時にこれはいい、これはだめというものの考え方だけが人生の全てかというと、もう一つ奥に大事なものがあるというのが釈尊の教えであります。区別した考え方も大切だけれども、今度はその区別した考え方を全部取りまとめて、人生とは一体何なんだ、生きることとは一体何なんだ、人間とは一体何なのかという事を、理屈ではなしに感じ取ることが大切だというのが、仏教信仰の基礎にあるわけであります。

我々がなぜ坐禅をするかと言えば、そういう区別の考え方から抜け出して、それ以上のものを掴むというところに坐禅のねらいがあり、仏道のねらいがあるわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生はいろいろおっしゃいますけど、先生の覚悟の決め方、決心と実行力はとても私は真似できないですね。先生は東大を出て、普通にそういう方と一緒にいれば、友達の方は第一線でやっておられて、先生はそうなれるのにならないで、「正法眼蔵」に心身ともにぶち込んじゃって、経済的にもパ-になるぐらいぶち込んじゃって、それぐらいの覚悟でやってて、現在も元気でやってらっしゃるんですからね。まあ普通の人間だったら中々できないですよ。

先生
そんなことはない。(笑)

質問
先生はよく100%主義と言いますけど、無理な要求じゃないですか。東大に入れない我々に100点なんていうことはすこ-し、超人とは言いませんけれども非人間的な考え方だという・・・。

先生
ただ、学校の入学試験なんていうのは人間が作った障害で、越えようと越えまいとどっちでもいいんですよ。各人には各人の人生があって、各人の人生目的を達成したという事が各人にとっての最大の幸福ですよ。社会関係の中で、我が身を殺して一所懸命社会機構の中で順応して生きている人がたくさんいますが、そういう方は「この我慢をしなければ自分は社会的地位を失う」とうことで一所懸命に涙ぐましい努力をしておられるわけですけど、私はああいう努力はしたいとは思わない。自分を捨てることですよ。

だから社会的な地位が高いとか、経済的に恵まれておると言う様な事はきわめて小さいことで、自分自身がやりたいと思う事が出来るかどうか、生きたいと思う人生が生きられるかどうか、それが人生の最高の目標ですよ――と、私は思う。これは、決して私がやせ我慢してそういうことを無理に言っているわけではないんであって(笑)、私は腹の底からそう思う。だから各人が各人の与えられた立場で一所懸命やれば、それはもう最高の人生だ、それ以外に最高の人生はないという見方です。だから私はこういう形で仏教の会をやらしていただいていることが最高の喜びです。                              
                          つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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