トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 坐禅箴 37

宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

特別の環境に限定される事なく一切を照らすと言う場合の照らすとは、理屈の上で理解できたと言う場合にはっきりとしたということではない。また理屈ではなしに神秘的な形で一切のものが何となくわかったと言う状態でもない。

※西嶋先生解説
宗教というものを考えると、すぐ神秘的なものと結びつけて理解するという立場がありますが、仏教はそういう神秘的な宗教ではない。普通の宗教は神秘的なことで解釈するわけですが、そういう神秘的なものを持ち出すと一番簡単なんです。全部神秘的なものに持って行っちゃう。そうすると何でもかんでも解決がつくけれども、何でもかんでも結局わからんことになる。仏道はそういう何でもかんでもわからんという思想でないから、神秘的な形で一切が何となくわかったというふうなことではない。

道元禅師の注釈に戻ります。
特別の対象にこだわらないと言う事が照らすと言う事の意味である。また様々な問題から脱け出すと言う事が、照らすと言う言葉の意味である。客観的に周囲を見つめると言う事ではなくて、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている事、自分自身の体のあり方、心のあり方そのものが照らすと言う事の意味である。取り巻いている環境そのものも、実に明々白々とした明らかなものでしかない。

特別の環境だけを対象にする事はないと言われてる。その事は別の言葉で表現するならば、この宇宙の一切はありのままの姿を現していて隠されているものは何もないと言う事である。宇宙そのものを否定するならば、個々の事物は一つとして出現できる事がないという事である。それは言葉で表現できないほど、細やかなものであり、素晴らしいものである。人生と言うものは、どうしてもとくことの出来ないもつれ合いと言う関係でもあるし、極めてすっきりとしていて問題は何もないと言う状態でもある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき

質問
人間の精神性の根本は一貫して変わらない人間性の中にあるけれども、そうすると、教育とか文化の発達に伴って発達してきたものというのは、人間の心のアクセサリ-にすぎないという・・・。

先生
いや、そういうことはない。少しずつよくなっているんですよ。人間の歴史というものを眺めてみますと、右に揺れたり、左に揺れたり、実に無駄な道を歩んでいるようですけれども、少しずつ良くなっているという事は言えると思います。それが世界の歴史だと思います。なぜそういう事が言えるかというと、二つの考え方が対立すると武力で戦争するんです。正しい方が勝ち残るんです。

これは非常に皮肉な見方というかドライな見方としてたいていの人は嫌がるかもしれませんけれども、世界の歴史は力で決まっている面があるんです。力で正しさを決めて人間が少しずつ今日に到達していると、こういうことを私は言わざるを得ないと思います。こういうことを宗教に携わる者が言うと「とんでもない暴論だ」という事で非常にお叱りを受けるとは思いますけれども、人間の歴史を眺めてみますと、どうしても戦争というものは大きな要因をなして、何が正しいかは武力で決まっているという問題がどうもあると思います。

私はそういう見方で世界の歴史を眺め、また社会の情勢というものを見る傾向があるわけです。だから○○総理に対する私の見方もそういう問題から出てくるんです。その点では、ま、ちょっと表現は悪くなりますけれども、その他、多勢がガヤガヤ騒いでも真実は真実でしかないという問題。そういう見方をしていきませんと、人生は生きていてもつまらんですよ。そういう見方ができるようになった時に、自分が何のために、何で生きているかという事がわかるんです。それが仏道修行だ。そういうねらい以外に仏道修行というものはないと、そういう事が言えると思います。 ――中略――       

ま、こういうことを言うと、たいへん激しい言い方でもって(笑)融通がきかないという感じにはなるわけですけれども、どうも人生の究極にはそういうものがある。そういうものにはっきり目を向けないと人生の意味が分かってこないし仏道の意味も分かってこない。仏道がなぜありがたいかというならば、そういう突き詰めたものの考え方に答えてくれるんです。そういう突き詰めたものの考え方に答えてくれる唯一の思想です。それだけに価値がある。だから聖徳太子が「四生之終期、万国之極宗」と言われた、というふうに見ていいんだと思います。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


                   
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

フリーエリア

仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

カテゴリ

FC2カウンタ-