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正法眼蔵 坐禅箴 36

宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

宏智正覚禅師が「様々の事柄に積極的に触れることなしに一切を知る」と言われているけれども、ここで言われている知るとは、頭で考えてわかったと言う意味での知るとは内容が違う。頭で考えてわかったというのは、小乗的な立場で考えたという事にならざるを得ない。また理解するという意味での知るでもない。ものを理解できたという事は、人間が努力して一所懸命に考えてやっと理解がついたと言う形のものである。

ここで宏智正覚禅師が言われているのは、坐禅の時の体験であって、理解ができるとかできないとかと言う問題ではなしに、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしていればいやでもわかってくるもの、それがここに言われている知るである。このように考えてくると、知ると言われている言葉の意味は、具体的な事柄の何かに捉われないと言う事であり、特殊な事柄に頭を向けてそれだけを気にして考える事がないという事である。

それでは個々の具体的な問題を全部ご破算にしてしまい、何もかも包み込んだ広い立場で問題を考えるのか、という考え方になりがちだけれどもそういうものでもない。また自分の頭で考えてわかったとかわからないとかと言う狭い範囲の考え方でもない。ここで具体的な個々の問題に捉われないと言われている言葉の意味は、頭がすっきりしている時はすっきりしたまま放っておくことであり、頭がどんよりしてよくものが理解できない時にはその状態で放っておくことである。別の言葉で言うならば、坐禅をして、母親が産んでくれたこの生身の体が仏の状態に置かれている事態を実現することである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は今から五百年以上も前の方ですよね。その方の勉強がこれほど現代の我々にいきてくるという事は、人間っていうのはほんとに変わらないんだなというより、むしろ、道元禅師のような素晴らしい人があんな時代にね――道元禅師の教えはすごく難解で私たちは先生についてなきゃわからないですよね。それなのにすでにそういうことを何百年も前に明らかにしていらっしゃるという事は、人間の知性ってのは変わらないし、教育とか文化とかと言ったものは一体何なんだろうって、そんな感じがします。

先生
だからそういう点では、人間そのものの中にも尊い不滅のものがあるという事が言えると思います。そのことは我々の住んでいる世界がそういう不滅のものであり、尊いものを含んでいると、こういうことが同時に言えると思います。もっと端的に言うならば、鎌倉時代においても太陽は朝東から上ったであろう、おそらく今日われわれが朝太陽を東の空に迎えるのと状況はそう変わらなかったであろう、おそらくほとんど一致していたであろうという事態は大体考えることができるわけです。

それほど我々の住んでいる世界というのは何千年経ってもそう変わらないんです。人間の苦しみも、悲しみも、嘆きも、喜びも何千年経とうとそう違わないんですよ。同じような苦しみを、同じような不安を繰り返し繰り返し沢山の人が悩んで生涯を終わっているというのが事実だと思います。
                      つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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