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正法眼蔵 坐禅箴 35

宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師の注釈は続きます。

代々の祖師方のかなめ。それは趙州禅師の弟子の鉄觜覚が法眼文益禅師に対して答えた「亡くなった趙州禅師は抽象的な言葉で坐禅について説明された事はありません」と言う一語に尽きている。

祖師方が大切にして来たものは、抽象的な言葉で説明できるものではない。抽象的な言葉で説明できないと言う原則そのものが、代々の祖師方がわが身そのものとして保持してこられたところである。釈尊の説かれた教えを伝える、あるいは釈尊以来代々引き継いてこられたお袈裟を伝えるという師匠と弟子との間の伝承と言うものも、抽象的な言葉で説明できるものではないと言う基礎のもとに、釈尊の説かれた教えが伝えられ、お袈裟が伝えられたのである。

仏道とか坐禅とかと言ってみても日常生活との関連で始めて意味を持ってくる。日常生活の中における、首の向きを変えたり顔の表情を変えたりするという個々の行動というものが、真実を得られた方々の非常に大切にされたところである。顔の表情を変え、首の向きを変えるという個々の具体的な動作というものが、代々の祖師方によって受け継がれてきたところの非常に大切な要点である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
運命論と因果律と同じじゃありませんね。

先生
哲学的なものの考え方からしますと、因果論というのをとると運命論に必ずなるんです。これはもう論理的な必然なんです。釈尊は因果論をとったから、一つの原則として運命論があったわけです。ただそれと同時に、自分の努力で運命を切り開いていくと言う教えもあったわけです。そういう点で、運命論を何によって切り開いたかと言うと、時間と言う考え方を持ってきたわけです。現在の瞬間に何をするかという自由は人間に与えられている。  

だから因果関係の考え方をとるならば、我々はもう過去から決められてしまって、自由がないんだけれども、人間は現在の瞬間に生きているんだから、その現在の瞬間の中で何をするかという自由が与えられておると。だから、仏教は自由論と因果論、あるいは宿命論と自由論というものを両方持っているという事。これは普通は矛盾していて一つの思想体系の中では両方を取り込む事は不可能だ。釈尊はその両方を取り込んで、しかもどういう手段で両方を仏教思想の中で調和させたかと言うと、時間の観念を持ってきたわけです。

質問 
時間の考え方というのは西洋思想にもあるわけですか。

先生
あります。

質問
この前、アウグスチヌスの「告白」を読んでたら、現在から未来を見た場合には期待で、過去を見た場合は記憶で、現在で現在を見た場合は直観いうような言葉が載っていたんですけどね。

先生
だからオ-ガスチンの言葉の中には同じような思想があるとみていいですね。あの人もやっぱり、現在の瞬間の中に永遠がある、という考え方をしてるんですよ。だからそういう点では東西揆を一つにして、宗教的な思想に一つの究極には同じような時間の考え方があるという事は言って差し支えないと思います。

質問
先生のお考えでは、比較宗教学というのはあまり大して役に立たないというお考えですか。

先生
いや、私は非常に役に立つと思います。というのは宗教を比較することによって、宗教の共通の基礎というものがわかって、そういう共通の基礎の中で、どの宗教が最終的に生き残るかという事の判断にはなると思います。ですから私は比較宗教学という学問は大いに意味のある学問だと、そういう見方をしております。

質問
もう一つ突っ込んで伺いますが、そうした場合に「正法眼蔵」の欠けたるものっていうのは何かありますか。

先生
私の知る範囲ではないですね。人生問題のわからんことは「正法眼蔵」を繰っていくと、どっかに出てくる。だから「正法眼蔵」の記述で解けないというのは私の場合はない。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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