トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 坐禅箴 34

宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」について道元禅師が注釈されます。

この「坐禅箴」の中に書かれた坐禅に関する戒めの要点は、坐禅こそは偉大な機能が現に目の前にすでに現れている状態であり、それは耳で聞こえるとか目で見えるとかと言う感覚的に捉えられるものを乗り越えたところの威厳のある姿であり、永遠の意味を持ったものではあるけれども、日常生活における目の前の具体的な自分自身のあり方でしかない。

おかしな理屈で仏教を説明して、結果的には釈尊の教えや祖師方の教えを誹謗することに陥らなければ大変結構であり、肉体とか精神とか、生とか死とかというものを自然に忘却しまう事がまた坐禅の内容である。我々が坐禅をしている時の姿というものは、釈尊が坐禅をしておられる時の姿と内容的には寸分の違いもない。

仏はどういう形で出て来るかといえば、仏は仏になった時に出て来る。人間が仏になる状態は坐禅をした時に仏になる。やる気があるだけでは仏になれない。その肝心要のものが、実際に足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている時には、現実のものとして坐禅に現れている。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
       
質問
たとえば宗教人の中には「何々をさせていただきます」というような、へりくだりの言葉でしょうか、丁寧語がございますね。それは「ある大きなものの力によって」とか何かという意味が含まれているんじゃないかと思うんですが、先生はどうお考えになりますか。

先生
そういう宗教思想と言うのは今日非常にはやっています。「一切によって生かされている」とか「やらせていただきます」とかね。だけれども、これは反面から見ると責任回避ですよ。自分の責任から逃げてしまって、全部周囲の影響によって人生は成り立ち、現実は成り立っているんだから、個人の努力などはやってもやらなくても同じ事だ、初めから決まっているというふうな事は、運命論ですよ。これは仏教思想とは別の思想です。

ただ、今日仏教と言うものを考えると、そういう考え方が一般的である事は事実です。その点では「何でもおまかせ」ということ。「何でもおまかせ」ということは、自分は努力してもしなくても同じだから努力はしないという事ですよ。だけれども、我々の人生はそんなもんじゃない。やっぱり我々一人一人が努力してこそ自分の生活が初めて動いていくんであって、「生かされているんだから、朝から晩までのんびりしていればOK」という事には絶対ならない。宗教というものが責任回避の手段に使われるという事は、非常に危険だという事があると思う。
 
質問
「人事を尽くして天命を待つ」と言う言葉がありますね。これはどう言うふうにお考えになりますか。

先生
だから「人事を尽くして天命を待つ」と言うのは、これは本当の生き方ですよ。人事を尽くさないで天命を待ってはいかんと言う事ですよ。「生かされている」と言う考え方は、人事を尽くすと言うのは意味がない、天命を待つだけだと言うのが基本的な考え方ですよ。今日の時代思想はこれが非常にに多い。年取っている人も、若い人もみんなそうですよ。「なる様にしかならない。人間は努力してもしょうがないんだ。お任せが本当のあり方だ」と言う考え方が非常に強いけれども、具体的に自分の人生を考えてみたら、そういう訳にはいかないですよ。
     
やっぱり一所懸命に自分の日常生活に取り組んでいかなければ、食事の準備一つできません、洗濯一つできません、部屋の掃除一つできません。その点では「生かされているんだ!」という事で塵にまみれて寝ているわけにはいかん。我々の人生と言うのは、そういう点では、非常に具体的な、またみみっちいもんですよ。人生と言うのはそう大まかなもんでは決してない。コツコツ、コツコツと積み上げて行くところにしか人生はない。そういう問題があると思います。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


        
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

リンク

カテゴリ

最近のコメント

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-