トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 坐禅箴 33

敕諡宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」は続きます。

何となくわかってくると言う事ははなはだ微妙であって、頭の中で考えて色々と区別すると言うものの考え方ではない。その様な考え方は入り込む余地がない。また体全体で、何となく周囲が明るくなってくると言う実感であるから、その実感というものは人為的な形ではなしに、自然に素晴らしい状態に到達する事ができる。

いまだかつて千分の一、十万分の一と言うほんの僅かな余分なものも生まれてくるという事がない状態であるから、自然にものがわかってきて明らかになると言ってみても、どういう事が具体的にわかったとかわからないとかと言う事ではなくて、一切を全て含んで了解がつくという事態である。

その様な形というものを具体的な、あるいは抽象的な形で表現するならば、綺麗な流れがあって水が透き通っているために、底の小石まで底の砂までが綺麗に見える。しかもその水の中を魚が決して急ぐことなく穏やかに泳いでいると言う状態でもあろう。また別の説明をするならば、何処まで行っても限界がない大空の中、その広い大空の中を鳥が悠々と飛んでいると言うような状況が坐禅の中身である



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき
質問
そうですね。私もだからいまさら心理学なんかに携わったりするのが一時いやになってしまって、「もうこれ(正法眼蔵)さえやっていれば私は満足だ」と。でも私の場合にはそれだけでは済まされない立場にいるのでやっていますけれど、ほんというと他の勉強に興味がなくなっちゃったんですね。

先生
それとね、仏教思想の基本がわかって来ると、他の勉強の位置づけというのがはっきりして来て、他の勉強の理解にも役立つし、また他の勉強が非常に意味を持ってくると、そういう面があると思います。

質問
確かに勉強そのものが深くなりますね。

質問
ちょっと今の事で――。私は賛成演説ばかりじゃありませんので、反対演説もやりますから(笑)。私の勉強の中心は人間は何かという事がスタ-トなんです。人間は何かということの研究の中で道元禅師は「正法眼蔵」を著して、人間の真実という事について表現されていることには敬意を表しますが、人間は何かという事については他のアプロ-チの仕方はたくさんあるわけですね。絶対的に頭を下げちゃって、他に比べるもののない人間の理解の仕方というふうには思えない。

道元禅師のものの見方については、ア-ノルド・トインビ-とかも同じことを言っていますよ。人間というのは自分の事だけ知らない、他の事はよく知っている。そこで「汝自身を知れ」とかいろんなことを言って警告を発していますけれども。先生はそのことを強調するようなしないような曖昧模糊のところがあるために、「正法眼蔵」の講義を離れて、人間とは何かとか、眼玉をよく見ろというところまでなかなか触れられないんで、先生の講義にまだもの足りないところがあります。

先生
その点ではね、仏道というのは自分を求めるとか、人間を求めるとかというのが目標であるという事は言えます。それと同時に、結論的に言うならば、どういう結論になるかと言いますと、曰く言い難しなんですよ。これが仏教の結論なんです。この結論が思想問題を考えていった場合にも実に貴重なんですよね。事実というもの、現実というものは言葉では究極において説明できないという主張が仏教の一面です。

ですから、人間とは何かという事を求めるという事、これを疎かにするわけではなしに、できるだけ人間とは何かという事について詰めていくわけですけれども、仏教が主張する究極の結論というものは、人間とは何かという事を詰めて行って、本当に分かった場合には、言葉では悦明しなくなると、こういうふうな皮肉な結論があるんです。このことが仏教という思想が非常に貴重な思想だという事の一つの意味です。

「そんなことじゃ、はぐらかされたような形でまったくもって結論にならないじゃないか」というのが共通の理知的なものの考え方です。だから何とかして説明がつくようにという事で一所懸命何千年にもわたって人類が苦労に苦労を重ねてきたわけですけれども、人間とは何かというものを掴むためには、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして感じるしかないとこういう主張なんですね。体全体で感じることなんだと。

人間とは何かという事を説明で読もうとしても本を見つけ回っても、本には書いてないというのが仏教の主張です、これは一つの貴重な主張で、人生問題を考えていく場合も非常に大切なんです。そのことをこの「正法眼蔵」では繰り返し繰り返し書いてあるわけです。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


      
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-