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正法眼蔵 坐禅箴 32

敕諡宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」は次に述べるものである。

仏教界の諸先輩が大切にされていたものが坐禅の中にある。
それを説明してみよう。坐禅をしている時は様々の事柄に積極的に触れてはいないけれども、言葉では表現できない様な状態で何となく自分の体、自分の心と言うものがほのぼのと明るくなってくる。

理屈でわかると言う事ではないけれども、何となく事態と言うものが体全体で感じられる。その様に具体的な何かというものに触る、目で見る、音で聞くと言う事ではないけれども何となくわかるものがある。その何となくわかるものは、本を読んでわかったとか、頭で考えてわかったとか、人に聞いてわかったと言う事ではない。

手を組み、足を組み、背骨を伸ばしている時に、どことなく自分に触れてくるものであるから、その内容は言葉では表現できないほど微妙なものを持っている。それは外界の世界の特別な場所に関心を置いてそれと対峙すると言う事ではないから、体全体が何となく明るくなってくる、滞りがなくってくると言う状態が生まれてくる。

そのように意識的に努力をしてつかんで得られたものではなく、坐禅をしている時に自然に浮かび上がってくるものであるから、それは人為的なものではなくて、しかも非常に素晴らしい内容を具えている。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
昨今の私のものの考え方を申し上げたいと思います。Kさんは毎回のようにここへ来ることが楽しい、期待してるというんですが、私は仕事だと思ってきている。随分違う。やっぱり努力なんです。来るためには、あっちもこっちもいろんなことを差し操ったりなんかして、仕事だと思って義務、責任ぐらいの考えで一所懸命来てるんですね。だからあまり楽しくないんです(笑)。これは正直な告白ですよ。楽しくないけれども、何とか他の仕事もやり繰って、”何かあるかもしれない”というんで来ている。

先生
それでね、仏道修行というのは楽しくなくても無理に頑張ってやるという面がどうしてもあります。私も坐禅がほんとに好きになったというのは、そう古いことじゃないですよ。五十、六十になってからですよ、坐禅がほんとに好きになって「楽しい」という感じを持つようになったのは。それまでは、やろうと思っても「今朝やったからまあいいや。晩になったらまたやろう」という気持ちの方が…。日曜日など、坐禅をやる時間があった場合でも「まあ、ちょっと遠慮しておきましょう」と言う様な事はずいぶん長いこと続きましたよ。

だからそういう点では、仏道修行に限らず、人生そのものが嫌なことでも頑張ってやらなきゃならんという面がありますよ、それが人生だ。だから人生はバラ色で、苦しいことも何もない、もう楽しくて楽しくて仕方がないというふうな事は、まあ本当の人生でないのかもしれません。

質問
いまMさんが、私が楽しくてしょうがなくて来ているとおっしゃったけど、それは私なりの人生の生き方からきているものであって、私も自分自身としても辛い時期があり、それを直すために心理学とかカウンセリングを勉強しました。いろんな勉強を通じて、最高に素晴らしい勉強がこの「正法眼蔵」、坐禅を通じて見つかったというこの喜びが私がとても楽しく勉強させてもらっているというプロセスに至ったのであって、自分の仕事のためにとかだったら私もそれは辛いだろうなと思いますね。

私は今までの経験が集積されて来て、初めて真実にぶつかったという驚きと喜びと希望がミックスされたものがここでの勉強の中に私なりに生きてきたという感じがするもんですから、だいぶMさんとは違うなと思っていま伺ってます。

先生
うん。それとね仏教思想のありがたさというのは非常にはっきりありますね。私なんかも若い頃からいろんな本を読みましたけれども、この世の中にたった一つの真実はあり得ないという暗黙の不安はありましたよ。どんなに勉強したって、それぞれ一面の真実しか述べていないんであって、この世の中に絶対の真実はまずないだろうという諦めの方が先でした。ただ、仏道を勉強していって、仏道についてはどうも疑いようがないという実感があるんです。

聖徳太子が「十七条の憲法」の中で仏教の事を、「四生之終期、万国之極宗」と言っておられるんです。この言葉は私は単なる文学的な形容ではないという見方です。まさにこの聖徳太子の言われた「四生之終期、万国之極宗」という事が仏道という思想そのものを的確に表現している言葉だと、そういうふうにしか理解できない面があります。「万国」という事は、単に東洋の国々だけではなしに、ヨ-ロッパもアメリカも北も南も含めてというふうな意味で、唯一の宗教だ、哲学だと。

だから仏教が世界に広まるならば、もう真実とは何かという事で人間がそうあくせく見つけ回らなくてもすむんだ、世界における最終の宗教だという見方をしています。私が言うといかにも手前勝手に聞こえるわけですけれども、私は疑問の余地のない形でそういうことを信じています。
                         つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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