トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 坐禅箴 31

それらの人々が書物に書き残したところを検討してみると、ただ本源に帰還することだと考えているようである。ただ単に思慮を停止したり、静寂に思いを凝らしたりという努力であって、天台宗で言う観想の坐禅、練磨の坐禅、薫育の坐禅、実習の坐禅というような四段階にも達しておらず、十地や等覚とか呼ばれる菩薩の境地にも及ばない。

その様な境地であるから、どうして釈尊以来代々の祖師方によって伝えられて来た坐禅を伝承しているはずがあろう。このような不十分な教えというものを、宋の時代の書籍をつくる人が誤って収録したに他ならない。これから仏道を勉強しようとする人々は、これらの坐禅に関する本を打ち捨てて読んではならない。

「坐禅箴」ついては、大宋国における宏智正覚禅師が書かれたものだけが釈尊以来の伝統を担った教えであり、坐禅の本当の要点が書かれた文章であり、この宇宙の内外に輝かしい光を放っているところのものである。過去、現在、無限の時間の中において真実をつかみ得た人に、さらに教えを垂れる事のできる力を持ったものである。

真実を得られた方々にはそれぞれ時代の前後はあるけれども、いずれもこの宏智正覚禅師が書かれた「坐禅箴」によって様々な注意を喚起せられ、現在における真実を得られた方々も、過去における真実を得られた方々も、この宏智正覚禅師の書かれた「坐禅箴」によって具体的に仏となる事ができるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生はもう長い間、何十年もやったから坐禅が楽しみになってますけど、私は、まあ正直言いますと、朝晩必ずというハンコは押せませんけど、なかなか他の人も大変じゃないかと思います。私自身に引き比べてみて。まだ現在楽しんで坐禅するなんて気持ちになれません。「危険だな」という事がありますね。難しい問題の解決の時に「じゃ一ひとつ坐禅でもしてみようかな」という気が起こるのは、逆に先生から言えばいいことかもしれませんけど、私自身としては危険なところへ引きずりこまれるという、そういうようなことで少し首をひねっているんですがね。

先生
問題を感じた時とか、不安だとか、悩みがある時というのは坐禅をすることが一番いいんです。

質問
いや、それは先生なら・・・。我々はそれに努力が要ります。

先生
うん、それでね、坐禅というのはやっぱり努力が要るもんですよ。「いやだなぁ」と思っても、眼をつぶってやるという性格があります。だから坐禅というのは楽しいものではあるけれども、やっぱりやるためには我慢して頑張るという面がどうしてもあります。

質問
先生、坐禅は本当に素晴らしいと思いますよ。素晴らしいと思うんですけど、それはそれで、まだ私は「正法眼蔵」の言葉の方で素晴らしいものをすごく吸収しちゃってるという感じで、味わってるという感じが私はすごくあるんですね。だから、先生が「坐禅、坐禅」っておっしゃるのは当然ですけど、この「正法眼蔵」のこともおっしゃっていただきたいと思います。(笑)

先生
うん、そう。だからその点ではね、「行解相応」という言葉があって、行いと学問と両方具わっていることが仏道修行の目標だと、こういう考え方がありますけれども、まさにその通りです。だから「正法眼蔵」を読むということも非常に意味のあることです。これはまさにその通り。なぜ意味があるかというと坐禅の中身が書いてあるからです。

もう初めから終わりまで坐禅とは何かという事が書いてあるんだというふうに見ていいほど「正法眼蔵」の中身というものは坐禅の中身と一つのものだと、こういう事が言えると思います。で、我々は文字を使った、頭を使ったりして問題を考えるという事も好きなんですよ。だから「坐禅だけやっておれ」と言っても、中々そうはいかないし、また坐禅だけやっていると、中身がわからないからすぐ脇道へそれていっちゃうという心配はあるんです。そういう点では「正法眼蔵」を読むことも大事だし、坐禅をすることも大事だと、両方大事だという事はまさに言えます。

※私の独り言。
ブログ名を正法眼蔵=坐禅に変えました。「正法眼蔵の中身は坐禅の中身と一つのものだ」という先生の言葉をそのままタイトルにしました。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


      
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

FC2カウンタ-