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正法眼蔵 坐禅箴 26

道元禅師の注釈は続きます。

人が普通に坐っている姿というものは、坐った形での仏( 真実を得た人)に外見は似ており、あるいは仏が坐った状態に外見は似ているようではあるけれども、人間が仏になるという意識的な努力をしている場合もあり、すでに仏となってしまった人がそこにいるというふうな状態であるという二つの場合の区別があることと関連して考えるべきである。

確かに坐禅をすることによって自然に仏になってしまった人というものが現実にあるけれども、坐禅をしていない人も含めてすべてが仏であるとは言えない。仏とすべての人とが全く同じというわけにはいかない。すべての仏と言うものが、すべての人とまったく範囲を同じにしているとは言えないから、普通の人間が常に例外なしに真実と一体になっているとは言えないし、真実と一体になった人というものは人間の境涯をも脱け出した面もある。

実際に坐禅をしている時の様子もこれと同じ様な状況にある。南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師とが、師匠も優れていたし弟子も優れていたために両者の間で様々な問答が行われたけれども、その問答の中身と言うものも今まで述べた様な事情と同じものである。 坐禅をする事によって仏になった状態を実際に体験していたのが馬祖道一禅師の立場である。仏になる事がどういう事かを説明するために、坐禅の中における真実と一体になった人と言うものを説明していたのが南嶽懐譲禅師の立場である。



              ―西嶋先生の話―

日本は一般に仏教国と言われているわけですが、今日我々の周囲の状況を見ますと仏教思想が本当に理解されておるかというと大変心もとない感じがするわけです。確かに日本の国民で自分の家が仏教に所属しておるという人は多いわけですが、今日書店に並べられている仏教書というものを見ましても本当に仏教思想が書いてあるのかどうか首を傾けるような本が非常に多いわけです。そういう点では、今後日本に仏教がどんな形で広まっていくかという問題を考えますと、必ずしも楽観できないような気がするわけです。

ただそれと同時に、世界と仏教という関係を考えてみますと、必ずしも悲観しなくてもいいのではないかと最近感じたわけです。どうしてそういう事を感じたかというと、先週英語の本ですが「The Tao of Phisics」という本を読んだわけです。私はこの本を一年ぐらい前に、現在、私の「正法眼蔵」の英訳の手伝いをしてくれているラッチフ-ォド君から読んでみないかという話を聞いたわけです。

ただその時、私は自分が旧制中学の時に物理学をやったわけですけれども、物理学というのは非常に難しい学問であんまりおもしろい学問でなかったという記憶があったものですから、どうも物理学の本を英語で読んでみてもわかりっこない、まして量子論とか、相対性原理というのは日本語の本で読んでもわからないんだから、まず自分は読んでも無理だと思って読まなかったわけです。

で、この9月に洞慶院で英語で坐禅会をやったわけですが、その時にレ-ニ・レベテッツという映画監督が参加しまして、この人は現在メキシコとコロンビアと両方に家を持っておるというスペイン系の人ですが、その人がやはりこの本を読んでみないかと言ってくれたわけです。その時にもあまり踏ん切りがつきませんで、その頃英語の歴史の本を読んでいましたから、その本でも読み終わったら読もうかなと思っていたところが、皆さんの中でもご承知の方がおられると思いますが、私のところへほとんど毎日のように英語を教えに来てくれるベリ-という人がいるわけです。
                             つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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