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正法眼蔵 坐禅箴 25

坐禅に関してまた別の言葉がある。「坐相(坐っているときの姿)に執着するならば、仏道の基本的な原則の全てに通達したことにならない」と。

この言葉について道元禅師が注釈されます。
坐相に執着するという事は、坐相はどうでもいいという考え方にとらわれて坐禅をしているときの姿を穢すことである。ここで言っている言葉の意味は、すでに坐るという形で仏(真実を得た人)になっている以上、坐相に執着しないということはあり得ないと言っているのである。そして坐禅をしている時の姿に執着しないということはあり得ないのであるから、坐相を整えなければならないという考え方で一所懸命に坐禅をしている場合もまた、必ずしも坐禅の基本原則に通達した状態と言い切れないものであろう。

この様に坐禅をする事に一所懸命になって、坐相に執着するとか坐相に執着しないという状態を超越する努力と言うものを、身心脱落(体とか心とかという区別を超越してしまった状態)と言うのである。いまだかつて坐禅をした事のない人にこの言葉があり得るのではない。ただ単に本の上で文字を読んで坐相に執してもいけない、坐相に執しなくてもいけないという事を理屈として言っていても、実際に坐禅をした事のない場合には本当の意味でこの言葉を説く事はできない。

この言葉というものは、人が現実に坐禅をしているときに初めてあり得る事であり、坐禅をしている人に初めてあり得るところであり、坐禅をして仏になっている人に初めてあり得るところであり、一所懸命に坐禅をしている人にあるのである。坐禅とは関係なしに日常生活で坐ったり寝たりしている際の坐ると言う事が、坐禅をしていて真実と一体になっている仏というものと同じだという事ではない。



              ―西嶋先生の話―

坐禅をなぜやるかといえば、自分自身が主人である状態を持つと言う事。坐禅の状態はどう言う事かと言えば、暑さ寒さがどうであろうと、生活がどんなに苦しかろうと、仕事がどんなに辛かろうと、そういうものを乗り越えて自分自身が自分の主人であるという状態、それが坐禅の状態。そういう点では、坐禅の状態というのは我々が経過している人生の一番基本の状態。

この人生というのは、楽しみもあれば苦しみもある。だから我々はいろんな楽しみを考えて熱中するわけです。楽しみの原点と言うのは何かといえば、気持ちが落ち着いてくる事。人間が幸福を感じる時と言うのは、気持ちが落ち着いている時。坐禅と言うのは、特別の道具立ても何もいらないけれども、自分自身の境涯に落ち着いている状態。だから坐禅の時の境涯というのが人生の出発点、人生の一番普通の状態と言う事にならざるを得ない。

そういう普通の状態というものを経験した事があると、ものの見方が歪まなくなる。ところが、そういう基本的な自分自身の状態を経験した事がないと、どれが基本かわからない。世間につられ、あっちへウロウロこっちへウロウロと言う事の繰り返しになる恐れがある。我々の人生と言うのはそういう繰り返しになる恐れがある。大事な事は自分自身が主人であるという事。だからそう言う自分自身が主人であるという立場で、どうしたらいいかと考えれば楽しみと言うものが本当に楽しくなってくる。自分自身で本当に楽しむという境地が出て来る。

自分自身と仲良くなる事。本当の自分と言うものをつかむと言う事、これが大切な事、それが坐禅でありそれが仏道であるという事になろうかと思うわけであります。


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コメント
606:自分自身が主人 by せっせせっせ on 2017/04/25 at 09:51:22

そうですね。
坐禅をしている時の落ち着いた感覚。
近頃は、この落ち着いた感覚が坐禅をしていない時にも日常によく出るようになりました。
出るというか戻れるようになったと思います。
残念ですが今だに感情的になって感情的な言動をとってしまうことがあり、した後で自分自身を反省します。この感情的言動の状態が自分自身が自分の主人になれてない状態というのでしょうか。しかし以前に比べたら回数は格段に減っていますし、した後で落ち着いた状態にすぐに戻れるようになり、結果として一日の中で落ち着いた状態でいる時間が増えていると思います。
もっともっと自分自身と仲良くなって本当の自分がつかめるように努力して行きます。

607:Re: 自分自身が主人 by 幽村芳春 on 2017/04/25 at 13:04:35

せっせせっせさん、コメントは「正法眼蔵」を紹介する励みになります、ありがとうございます。

私も坐禅を始めるまでは感情的になることが多かったのですが、坐禅を始めてもまだ感情的になる事があるので、ある時に先生にそのことをお聞きしました。
「先生、毎日坐禅をやっているのについ感情的になってしまうんです」と。
そしたら先生は「坐禅をやる前より随分減っているでしょう」と言われました。
なるほど先生のおしゃる通りで、自分では気が付かないうちに以前より落ち着いた状態でいる時間が増えていました。
これからも坐禅と「正法眼蔵」は大切な私の羅針盤です。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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