トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 坐禅箴 24

馬祖道一禅師に南嶽懐譲禅師言う。「お前がもしも坐禅をしているならば、そのときの状態というものは、仏の境地を超越した状態である」と。
         
南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈です。
南嶽懐譲禅師の言葉に従ってさらに坐禅と言うものを勉強していくと、今度は仏の境地を超越するという性格があるのである。坐禅をしているまさにその瞬間というものは、仏というものを超越しているのである。仏の境地を超越しようとするならば、坐った形で仏になるという坐禅を実際にやらないならば、とうてい仏の境地を超越した素晴らしさというものに巡り合うことはできない。

この超越するという言葉は我々が日常生活でいくらも使うところであって、凡夫が使う超越するという言葉の意味と同じような言葉に聞こえるけれども、同じだと考えてはならない。そして坐禅の形で真実と一体になっているという事が、実は仏の境涯を超越することだと言われているけれども、その内容というものには、一体どういう区別がありどういう段階があるかと言う事を勉強してみるべきである。

そしてその問題に関連しては、仏の境地はすでに超越している、問題にしていないという点があることを頭において、我々が日常生活で人間を超越するとか、人間の境涯を超越できていないとかという事を言うけれども、そういう問題も、この仏の境地を超越すると言う言葉と同じ意味で勉強すべきである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「正法眼蔵」の教えは尊いものではあるけれども、私は先生の様に世界唯一とは思えないんですね。先生が「私は経験しないことはしゃべらない」と。「本にどんなことが書いてあったってそれを直ちに信じない」と。私もそうなんですね。経験しないことは信じられないけれども、経験したことは相当信ずる。その立場から言いますと、必ずしも「正法眼蔵」が世界唯一の教えであるとは信じきれない、そういうところがある。

先生
私が「正法眼蔵」に近い思想として最近感じているのは近代物理学です。これは仏教との間に非常に近親感があるように思います。「正法眼蔵」に説かれている思想に一番近い思想と言えば近代の物理学です。相対性理論とか量子論というものです。これは「正法眼蔵」の内容を検討していきますと非常に近い。ただそれ以外に近いものを、私は今まであんまり発見できていない、そういう感じです。

質問
「私は先生の様に必ずしも正法眼蔵が世界唯一の教えであるとは信じきれない」と言われた方がありますが、先生の言われている通りに、「そうか」という事で時間があったら坐ればいいんじゃないかと、ただそれだけのことなんだから、信じるか信じないじゃなくて、坐ればいいんじゃないですか。それ以上、頭でゴチォゴチャいう事でもないし。
        
先生
確かに仏道というのは坐禅することが一番最初ですね。それがすべてだと言ってもいいと思います。ただ人間というのは理屈が好きなんです。だから、坐禅をしているだけではどうも満足できなくて理屈の方も知りたいと、こういう事は人間の本能としてあると思います。だから本を読むこともやっぱり避けるわけにはいかないと、そういう問題があると思います。

私の独り言。
私も先生の様に「正法眼蔵」が世界唯一の教えであると信じています。だから毎日坐禅をやり「正法眼蔵」を頼りに暮らしています。


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


      
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-