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正法眼蔵 坐禅箴 23

また南嶽懐譲禅師言う。「仮に坐禅を実際に勉強した場合には、仏(真実を得た人)というものが、必ずしも固定した姿のものでないという事がわかってくる。

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
坐禅というのはどういうものかという事を言おうとするならば、この様な南嶽懐譲禅師の言葉にならざるを得ない。坐禅をやっている一人一人の姿というものはそれぞれが様々の内容の坐禅をしている。各人各様の内容を持った坐禅というものによって飾り立てられた姿というものが、坐禅の本当の内容である。

今、ここで南嶽懐譲禅師が「仏の中身とは、必ずしも決まった形のあるものではない」と言われた言葉というものが、釈尊の持っておられた内容、姿と言うものがどういうものであったかという事を言っておられるのである。そして坐禅というものはこれと言う決まった姿、決まった内容のあるものではないけれども、それだけに坐った形で真実と一体になるという事は、どうしても逃れることのできない、避けることのできない、あるいはそれなしにはいられないところのものである。

この様に考えてくると、坐禅というものは、仏のこれと決まった形ではない姿に飾り立てられた修行であるから、坐禅をやっているときというものは、直ちに坐った形における真実を得た人そのものである。固定的なものを一切持っていない宇宙の中で、これは仏でないとして選り好みをしたり、これは仏であるとして選り好みをしたりする者があろうか。

坐禅というものは坐禅を始めた瞬間から、選り好みなどという心理作用を超越したものであるから、坐っている形の仏(真実を得た人)以外の何者でもない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は今でも坐禅は好きなんですけれど疑問が起こる事があるんです。最近シ-ズンになりまして、よく接心(坐禅会)に誘われるんですね。一日15炷(45分を一炷と言う)を一週間続けてやるんですね、もう足のほうがまいってしまい、ああいうのは難行苦行だと思うのですが、先生はどうお考えになりますでしょうか・・・。

先生
まあ私もそういう考えに近いですね。私はこう言う事がいえると思うんですよ。 毎日1時間365日やるのと、15炷を一週間やるのとどっちが貴重かと言う事。365日欠かさずにやるという事が私は絶対に必要だと思う。坐禅修行に関する限り絶対必要だと思う。だから15炷の接心終わった翌日も必ずやらなくてはいかん。
    
「15炷接心が終わった、よ-しこれで終わりだ、一杯飲め」と言う様な事で、 ドンチャン騒ぎをやるというのでは仏道修行にならんと思う。ならんと言っては語弊があるかも知らんけれども、それよりは毎日の坐禅を 365日欠かさずにやる方がはるかに貴重。 これは私の経験から言うんですよ。
    
坐禅を毎日やる様になる前は、坐禅と言うものが全然わからなかった。あっちこっちへ行って坐禅の接心をやらなかった訳じゃないですけど、そういう努力をしておった時には坐禅と言うものがよくわからなかった。毎日やる様になってから「アッ」と言うふうに感じた。これ以上の事はないじゃないかと言う感じだった。 毎日やっている限り、あともうこれ以上望むものがないんじゃないかと言う実感が、毎日やっていると出て来るものだ。

だから、とにかく人のやらん事をやろうと言う様な事で、15炷、16炷やるという事、これも非常に結構な事だと思いますけど、 365日一日も休んじゃいかんと言う事、この事の方が私は大事だと思う。


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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