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正法眼蔵 坐禅箴 20

南嶽懐譲禅師の「牛車が動かない場合に、車を打った方がよいか、牛を打った方がよいか」という質問に対して、馬祖道一禅師は答える事なく黙っていた。

馬祖道一禅師の態度について道元禅師が注釈されます。
馬祖道一禅師が返事をしないで黙っていたと言う事情をうかうかと見過ごしてはならない。馬祖道一禅師が示した態度というものは、敷瓦のような価値の低いものを投げ捨てて、価値の高い宝玉を取り上げるという態度であり、首の向きを変えて、さらに顔の表情を変えるということに相当する。

※西嶋先生解説
これはどういうことかというと、いずれも行動というものを説明しておられるわけであります。馬祖道一禅師が南嶽懐譲禅師の質問に対して、「実はこれこれでございます」というふうに理屈をこねて反論しなかったという事の意味は、行いそのものの一つであって、たとえば非常に価値のないものを投げ捨てて、価値の高いものをとるとか、あるいは頭の向きを変えて表情を変えるというふうな実際の行動である、という事を理解すべきである。

道元禅師の注釈に戻ります。
馬祖道一禅師が南嶽懐譲禅師の質問に対してつべこべ言葉で返事をすることなく、黙っておられた態度というものは、馬祖道一禅師の独立独歩の態度であって、決して他の人が批判をしたり変えさせる事の出来ないものである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

二番目の忍辱というのは、恥ずかしさを忍ぶという事でありますが、単に恥ずかしさだけではなしに、苦しいことを忍ぶという意味もあるわけであります。我々の人生いうのは、決して波風のないものではない。非常に苦しい事がいくらでもあるわけです。

そういう苦しい事があったときに、ジ-ッと我慢をするか、やけを起こして自分の生活を乱してしまうか、という問題に関連して、苦しい事が仮に起きても、あるいは人から軽蔑を受けた、辱めを受けた、悔しいという場合でも、ジ-ッと我慢するかどうかという問題に関連して、仏教では、人生は様々な場面があるから、我慢しなければならない時にはジ-ッと我慢しなければならないと言う事が「忍辱」と言う項目の教えであります。

我々が人生というものを考えていく場合に、人生の結果がいいか悪いかの一つの基準は、不遇の時に腐らないかどうかと言う事、不遇な時にジ-ッと我慢できるかどうかと言う事が、かなり大きな問題としてあると思います。たまたま不遇に陥った時に、それが辛抱できなくて、自分自身を捨てるという事があると、人生そのものがおかしくなってしまう。だからそういう点では、自分の不遇の時にジ-ッと我慢して、時間がたつのを待つだけの力があるかないかと言う事が、人生をどう送るかと言う事の分かれ目になると、そういう問題があろうかと思います。
                            つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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