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正法眼蔵 坐禅箴 19

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

牛を打つ(心の問題として坐禅を考えていく)というやり方が世間一般の考え方としてあるけれども、釈尊の説かれた教えの中において、牛を打つとはどういうことかをさらに学んでみなければならない。それは去勢された水牛に譬えられた自分自身を打つことなのであろうか、鉄の牛に譬えられた師匠としての心のあり方を打つことなのであろうか。泥の牛に譬えられた一般人の心境を打つことなのであろうか。

坐禅の修業の対象は様々である。各人の坐禅の内容もそれぞれ様々な状態を示すものである。そしてまたその牛を管理するやり方としても鞭で打つ場合もあれば、宇宙全体でその牛を打つという事もあるし、心全体で牛を打つという事もある。骨髄を打って打って打ちのめすという行き方もあるし、げんこつで殴るということもあり得る。そういう様々な形があり得て、具体的にそのどれを採用するかと言う問題が我々の実人生の中にはいくらでもある。

さらに究極の捉え方として、拳で拳を殴るという事があり、牛で牛を打つという事がある。

※西嶋先生解説
この事はどういうことかというと、拳は拳なりにありのまま、牛は牛なりにありのまま、自分は自分自身でありまま、この世の全てのものがそれぞれ何らかの人間の意志を混えずに、きわめて自然に厳然として実際に存在しているという事を、拳を拳で殴る、牛で牛を打つという言葉で表しているわけであります。だから拳は拳、牛は牛という事で、それぞれのものがありのままに存在するということを意味しておられるわけであります。



              ―西嶋先生の話―

きょうは、仏教の主な言葉の説明として「六波羅蜜」と言う言葉を説明しておきたいと思います。波羅蜜というのは、梵語の「パ-ラミッタ」と言う言葉の音を漢字で表した言葉でありまして、言葉の意味は「到彼岸」と訳されおります。「到彼岸」というのは、向こうの岸に着くと言う事。向こうの岸とは、真実の世界と言うこと。真実の世界に行き着くと言う事を「パ-ラミッタ」と言う言葉で表現しているわけであります。

「六波羅蜜」というのは、この真実に到達する道として六種類のものがあると、こういうことが言われておるわけであります。何かと申しますと、第一が布施、二番目が忍辱(恥ずかしさを忍ぶ、苦しいことを忍ぶ)、三番目が持戒(戒律を守る)、四番目が精進(努力をする)、五番目が禅定(坐禅)、六番目が智慧、という六つの項目を指すわけであります。

まず最初の布施というのはどういうことかというと、人に物を与えるという意味であります。我々は物というものに関連して、自分の物・他人の物という考え方があるわけであります。大抵の人は自分の物が増えればいいと思う。これは人情の常。で、たまたま他人の物も欲しくなる事がある、他人の物を何とかして自分の物にしたいと言う気持ちも、人間だれでもあるわけであります。

ところが、そう言う心の状態というものが人間の普通の状態かどうかという事について、仏教は反省を持ったわけであります。人間の普通の気持ちとしては、自分の物が欲しい欲しいだけが本当なのか、あるいは自分に余っている物があれば、人にも上げましょうという気持ちになる方が普通なのかという問題に関連して、自分の持っている物で人にあげられる物はあげましょうと言う気持ちが、普通の人間の気持ちだ、とそういう事を主張されたわけであります。

だからそういう点で、人に物をあげると言う事が、仏道修行の一つの項目として大切だと言う事を「布施」と言う言葉で説かれているわけであります。
                               つづく--


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コメント
604:六波羅蜜 by せっせせっせ on 2017/04/18 at 23:29:49

考え方としての刹那生滅の道理。
そしてそれを実践していくための具体的な、
日常生活の送り方の基準としての六波羅蜜。
ということですね。

605:Re: 六波羅蜜 by 幽村芳春 on 2017/04/19 at 12:34:42

せっせせっせさん、コメントありがとうございます。

仏教書を読んだりして「六波羅蜜」の教えを知識として知っている方は沢山いると思います。私は若い頃から仏教に興味があり色々な方々の本を読んだり話を聞いたりしたのですが、いくら頭でわかっても六波羅蜜を実行をするとなると中々大変だし、自分が釈尊の教えに従って生きているかという確信も持てませんでいました。

でも西嶋先生と出会い、道元禅師の只管打坐ただ坐禅さえしていればよいという、坐禅をすればすでに仏であるという教えを受けて六波羅蜜の教えも知識としての教えではなく実際の日常生活に生かせるようになりました。

まだまだ「正法眼蔵」は続きます。一緒に道元禅師の教えを勉強していきましよう。よろしくお願いします。

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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恁麼(いんも)の巻に入りました。 恁麼とは、宋の時代の俗語で「あの」とか「あれ」という意味を表わす指示代名詞であり、用例によっては「なに」というような」疑問の意味を表わす場合もある。言葉で具体的に表現することの困難な何物かを指すところから、仏教が追い求めるところの心理を言い難き何物かという意味で、この恁麼という言葉で表現した。 コメントお待ちしています。

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