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正法眼蔵 坐禅箴 18

南嶽懐譲禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

また「牛車が動かない場合に、車を打った方がよいか、牛を打った方がよいか」と言われているところから見ると、車を打つという場合もあり、牛を打つという場合もあるということを勉強しなければならないようにも思われる。

※西嶋先生の話
ここで「車を打つ」とか「牛を打つ」とかという事で何を意味しているかというと、坐禅に関連して言うならば、坐禅を心の面から見るという場合が「牛を打つ」という事にたとえて差し支えない、坐禅を体の面から見る場合に「車を打つ」というふうにたとえて差し支えない。だから我々が坐禅をやっている場合に、気持ちが落ち着くとか落ち着かないという気持ちの状態として捉える場合と、筋肉が緊張しているとか、足が痛いとかという体の問題として捉える場合と両方ある。

その点では、人間のものの考え方には二通りの代表的な考え方があって、心を中心にして問題を考える考え方と、物(体)を中心にして問題を考える考え方と二通りあるけれども、仏道は両方を共に考えるという問題があるから、「車を打つ」という事もあれば「牛を打つ」という事もある。つまり、体を問題にして坐禅を考えていく場合もあるし、心を問題にして坐禅を考えていくという場合もある。

道元禅師の注釈に戻ります。
車を打つという事、牛を打つという事がまったく同じなのか、あるいは別々なのか、その辺も考えてみなければならない。世間的な常識からするならば、車が前に進まない場合に車を打つという方法はない。世間の常識的な立場からするならば、車を打つという方法がないという事が実情であるけれども、釈尊の教えは体の方から管理していくという問題もあるという事が、この南嶽懐譲禅師の言葉から知れるのである。

我々の人生を体の方から管理していくという事もまた、釈尊の教えを勉強していく上においては非常に大切なことである。そして坐禅に関連して言うならば、体のほうから管理していくという事と、心のほうから管理していくこととは、まったく同じだというわけにはいかない事情がある。その点を事細かに考えてみる必要がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき
         
坐禅をやっている時には、今までの自分だと思っていたものがどこかに行ってしまう。そして「自分はこんなに真面目ではないはずだ」と言う確信があるんだけれども、そういう本来の自分とは違うと思われる様な状態に自分が坐っている。いつも自分と思っていた過去の自分と言うものがどこかに行ってしまう。過去の様々な行いによって築き上げた自分というものが壊れて行ってしまう。そういう事情がある訳です。

その過去の自分が壊れていくと言う事が誰にとっても怖い。だから坐禅をやらないという事は怖いと感じてやらない、あるいはやめてしまうという事情がある訳です。仏道修行とは、過去に築き上げた自分と言うものを壊して本来の自分に立ち返る、というのがねらいです。

ですからそういう点では、坐禅をやるという事が仏道修行の全てであると言える訳ですが、今日の考え方からすると、坐禅をやると言う事はどうも信じられない、意味が解からないと言う事情がありますし、また本来自分だと思っているものが何処かへ行ってしまうという不安に耐えられないと言う事情もあって、坐禅を中々やらないという事があろうかと思います。


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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ブログ名を「坐禅と暮らし」から 「正法眼蔵=坐禅」に変えました。

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