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正法眼蔵 坐禅箴 16

馬祖道一禅師の「敷瓦を磨いて鏡をつくる事ができるのでしょうか」という質問に対して、南嶽懐譲禅師言う「敷瓦を磨いて鏡をつくる事ができないならば、坐禅をする事によって仏になるという事ができるかどうか」と。

道元禅師の注釈です。
この南嶽懐譲禅師の言葉からはっきり知れる事は、坐禅をやりながら仏になる事を期待して待っていると言う考え方ではない。坐禅をしている事にすでに絶対の意味があるのであり、仏になる事を目的にして坐禅をしているというわけではないという趣旨というものが、南嶽懐譲禅師の言われた言葉からはっきり汲み取れる。

南嶽懐譲禅師が「敷瓦を磨いて鏡をつくる事ができないならば、坐禅をする事によって仏になるという事できるかどうか」と言われたので、馬祖道一禅師問う「それでは一体どうしたらいいのでしょうか」と。

道元禅師の注釈です。
馬祖道一禅師の言葉というものは、自分の態度について質問しているようではあるけれども、「あなたは一体どうですか」という相手方の状況を聞いている質問でもある。たとえば親友と親友とが出会った時を考えてみるがよい。相手が自分にとって親友である場合は、自分も相手にとって親友である。

これと同じように、「それでは一体どうしたらいいのでしょうか」と言っておられる馬祖道一禅師の境地は、馬祖道一禅師も真実と一体になっているけれども、南嶽懐譲禅師もまた真実と一体になっている。師匠と弟子と二人の人が共に真実と一体になった境地において、お互い問答を重ねているという事情に他ならない。



              ―西嶋先生の話―

「なぜ坐禅をやらないのか」と言う事を四諦で考えてみます。

1苦諦(心の立場)
今日の時代は人間の頭の働きを最優先する時代ですから脳細胞を動かして色々な事を考える事が、人間の最高の能力であると言う考え方になります。何も考えないで30分とか45分じっと坐っている事に一体何の意味があるんだ、という疑問は現代人は誰でも持つ訳です。そう言う何も考えないでじっと坐っている事が、到底信じられないという事があると思います。

2集諦(体の立場)
例えばマラソンは筋肉も動かす、呼吸も激しくなる、汗もかくと言う事で、さぞかし体のためにいいだろうと、これは簡単に信じる事ができるわけです。医者の勧める健康食を口にするならばこれも健康にいいだろう、医者の勧める薬を飲めば健康になるだろうという事は信じる事ができるわけです。しかし何もしないでじっと坐っている事が健康のためにいい、という事は信じられない訳です。

3滅諦(行いの立場)
人間の価値を考える事において、ものを考える事が人間の価値の最高のものと言う立場からすると、体を動かす事、何らかの行動をする事は、ものを考える働きに比べると一段低いと普通は感じるところです。ですから、手を組んで、足を組んで、背骨を伸ばして坐っている事が人間の行いとして貴重なものだと思えない。そういう点からも、坐禅が信じられないという面がある訳です。

4道諦(坐禅の立場)
この世の中には色々な種類の仏教があり、坐禅は仏教の修行における一つの方法である。だから、必ずしも坐禅をやらなくても仏教は解かるはずだ、という考え方がある訳です。ですから、坐禅、坐禅と言うけれども、どうもそう言う主張は一方的で中々信じる事ができないという事情がある訳です。ですから、坐禅が中々できないと言う事の原因は、坐禅が苦しいとか、足が痛いとか、足が痺れるとか、眠気を我慢するのが辛いとか、辛いからやらないのではなくて、何のために坐禅をやるのかと言う事が信じられないと言う事が最大の原因であろうかと思います。
                             つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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仏向上事の巻に入りました。 仏(真実を得た人)とは、真実を得た後もさらにその事を意識せず日々向上の努力を続けている生きた人間の事である。そしてこのように真実を得た後も日々向上に努力して行く人のことを仏向上人と言い、その様な努力の事態を仏向上ノ事と言う。道元禅師が諸先輩の言葉を引用しながら説かれます。

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