トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 坐禅箴 15

南嶽懐譲禅師が「敷瓦を磨いて鏡をつくろうと思っている」と答えたのに対して、馬祖道一禅師問う「瓦を磨いて鏡をつくる事が出来るのでしょうか」と。

道元禅師の注釈です。
敷瓦を磨いて一所懸命いいものを作ろうと努力する固い信念を持った人は、自分自身で一所懸命努力して人の力を借りる必要がないけれども、敷瓦をいくら磨いても鏡を作る事ができないという事も明々白々とした事実である。

敷瓦を磨くという事が鏡をつくる事と全く同じ事ではあるかもしれないけれども、その状況と言うものは、敷瓦を磨いた事が鏡をつくる事につながると言うふうな間接的な事情ではなくて、敷瓦を磨いていること自体が、鏡をつくっている事と全く同一の事実だと言う事が言えるであろう。

※西嶋先生解説
この事はどういうことかというと、坐禅をしている時が仏になっている時だという事と同じ意味を持っているわけであります。坐禅をして仏になるんだというのではなくて、坐禅をしている時が仏になっている状態だという事、そのことを敷瓦を磨くという事と鏡をつくるという事とは全く同じことであるというふうに言われているわけであります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
宗教家、教授、そういう類の人はやっぱり片寄った世界に生きていると思います。だけど先生は我々と同じレベルで一つの企業の中に入って、そういうところの大変さ、人間関係とかいろいろな面で・・・宗教家や教授のように専門的に仏教の言葉だけを教えると言うのは、やっぱり私が見ている感じでは薄っぺらい感じがしてしまいます、経験的に。

先生
私の場合、自分を振り返ってみて、非常にわがままな生き方をしたという事は言えると思いますね。その事はどう言う事かと言うと「名利(名誉と利得)の心を離れろ」と言う事に関係しています。「名利の心を離れろ」とは「わがままな生き方をしろ」と言う事です。人間にはわがままな生き方をする義務があると、それが「正法眼蔵」の教えですよ。

ところが世間のしがらみに縛られると、それについていかないと損をするとか、それについていかないと仲間外れにされてしまうとかと言う事で、わがままな生き方をみんなやらないんですよ。仏道と言うのは「わがままな生き方をしながら、しかも道から外れない」と言う事です。だからそういう点では「名利の心を離れる」と言う事は、決して山の中に入って食べたいものを食べないで我慢する事ではない。

たとえば、社会で一つの職業に就きますとグル-プがあるわけですよ。つまり学会なら学会でグル-プがある。そう言うグル-プの中に所属していないと、学者としては中々浮かばれないと言う面があるわけです。浮かばれたい為には嫌な事も我慢をすると言う事もあるわけですけどね。そう言う生き方と仏道の生き方は別だと言う事です。それは社会から飛び出して生きるという事ではなくて、社会の中に生きておりながら、しかも自分の良心に従って生きるという事


ご訪問ありがとうございます。よろしければクリックお願いします。


       
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
ご訪問、ありがとうございます。
夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

最近の記事

最近のコメント

リンク

カテゴリ

フリーエリア

坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

FC2カウンタ-