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正法眼蔵 坐禅箴 13

馬祖道一禅師の質問に南嶽懐譲禅師が答えて言う「自分は敷瓦を磨いて鏡をつくろうと思っている」と。

南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。
この言葉の意味をはっきりと理解しなければならない。南嶽懐譲禅師が「敷瓦を磨いて鏡をつくろうと思っている」と言っておられるけれども、この言葉には必ずはっきりとした意味があるはずである。まさにこの現実の世界に実在するところのはっきりとした存在があるはずである。実在しないところの口先だけの議論であるはずがない。

ここで大事なのは、敷瓦は敷瓦であって別のものではない。鏡は鏡であって別のものではない。そういう事実というものははっきりしているけれども、磨くと言うのは磨くと言う動作、その磨くと言う動作が非常に大切な理論を具えていて、その理論の解明に努力するというところのうちに、様々の様子があるという事を承知しなければならない。

※西嶋先生解説
敷瓦は敷瓦なりにそれでいい、鏡は鏡なりにそれでいい、一番大事なのは磨くという事だ。これは我々の人生を考えていった場合に、非常に大切なこと。素質があるとか素質がないとかというふうなことはそう大したことではない。ただ日常生活を一所懸命やるかやらないか、これで人間の値打ちは決まるという事、これの方がはるかに大きいという事。ここで言っておられるのはそのこと。磨くことに一所懸命になるという事で、様々の違いが出てくるという事を勉強して知るべきである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

「正法眼蔵」発菩提心の巻の中に次の様な文章があります。「おほよそ発心得道、みな刹那生滅するによるものなり。もし刹那生滅せずば、前刹那の悪さるべからず。前刹那の悪いまださらざれば、後刹那の善、いま現生すべからず」と。一般的に言って、我々が真実を得たいという気持ちを起こしたり、釈尊の説かれた真実をわが身に得たいと言う様々な仏道修行はみな、我々の人生が瞬間瞬間に生まれては消え、生まれては消えしているからこそ可能なのである。

もし我々の人生が現在の瞬間瞬間に生まれたり消えたりしているものでないならば、過去において行った悪い事がなくなるはずはない。過去の瞬間において行った悪い事がなくならないとするならば、その後にいくら善い事をやろうとしても、過去に行った悪い事が邪魔をしているから善い事が出てくることができない。

このことの逆の意味は、ただ我々の人生と言うものは現在の瞬間瞬間において生まれては消え生まれては消えしている性格のものであるから、過去において間違いを犯したとしても、過去において取り返しのつかない様な不幸が起きたとしても、今はまた過去とはまったく切り離された現在の瞬間であるから、過去の束縛から離れている。そして、現在何をするかと言う事については、人間としての自由が与えられている。
                                つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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