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正法眼蔵 坐禅箴 12

南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。我々の日常生活における人生に対する理解と言うものを考えて見るならば、仏教を勉強し、釈尊の教えを聞き、坐禅を勉強すると言うような様々の事があるけれども、そう言う様々な仏道修行の努力というものが中々わかったと言う問題につながらない。

単に仏と言う様なものがわからないと言う事だけではない。我々が常に飲んでいる水を考えてみても、水とは一体何なのかと言うふうな事もよくわからない。水一つをとってみても実に複雑でよくわからない。山を現に目の前に見ていても、山が一体どう言うかたちで出来上がって、どういう意味があるのかというふうな事はよくわからない。山一つ取ってみても実に複雑でよくわからない。

しかしながら、我々の周囲にある問題というものは実に難しい様々の問題があるけれども、それを何とか勉強しよう、解きほぐそうというのが仏道修行であり釈尊の教えを学ぶことである。我々の目の前にある一切の実在というものは、まったく理解の困難なものであるというふうに決めつけるならば、それは軽率なことであり釈尊の教えを学ぶ所以ではない。



              ―西嶋先生の話―

    --つづき

だから、この二つの考え方は、どっちか一つが正しくて、どっちか一つは間違いだという考え方にならざるを言えないわけでありますが、そのどっちか一つをとってみますと、我々の人生の説明としては不完全なものになってしまう。なぜそうかと言いますと、仮に我々が原因・結果の関係に縛られていないといくら強がって言ってみても、我々は過去の様々な出来事から影響を受けて、どうしてもその影響から逃げる事が出来ない。そうすると、因果関係に縛られていないと言う事がどうしても現実の問題としては嘘になってしまう。

そうかと言って今度は、原因・結果によって全部縛られているんだから、我々に自由はないんだと言うことに考えを変えてみますと、自由のないところには善悪と言うものはあり得ない訳であります。だからあの人は善い人だとかこの人は悪い人だとかと言う区別は出来ない。だれもかれも全部過去に縛られていて、悪い事をしても人間の責任ではない、善い事をしても人間の偉さではない、各人が成り行き任せでズルズルと生きているに過ぎないんだけれども、結果的に見て人が善いとか悪いとかと言うだけの事で、それが本当に善いとか悪いとかと言えるはずのものではない、と言う考え方になるわけであります。

ですから、この二つの考え方と言うものは、人間の人生というものを考えていく上においては、どうしても二つともはずす事の出来ない考え方、しかも、二つが両方正しいという事は絶対にありえない関係というものに置かれている訳であります。釈尊はこの二つの考え方を調和させるために「刹那生滅の道理」と言う考え方を使われた訳であります。我々の人生と言うのは現在の瞬間においてしかありえないのだから、その瞬間にあるという事が、実は我々が自由でありながら、しかも束縛されている、自由でありながら、同時に原因・結果の関係によって束縛されていると言う関係を初めてもたらすのだと、こういう説明をされた訳であります。
                              つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。68歳。自営業。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで毎日更新し自宅で朝晩毎日坐禅をしています。師事した愚道和夫老師より平成13年「授戒」戒名幽村芳春。平成20年「嗣書」授かる。    

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坐禅をしているという事は、足を組み、手を組み、背骨を伸ばして釈尊と同じ格好をして釈尊と同じ心境になっているという事でしかない。坐禅を中心にして、釈尊の思想が時代が変わり場所が変わっても、その場所、その時代に適応するような形でずっと伝わってきている。

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