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正法眼蔵 坐禅箴 11

馬祖道一禅師が「自分は坐禅をして仏になりたいと思っています」と返事をしたので、とっさに南嶽懐譲禅師は一つの敷瓦を取り上げて石の上に押し当てその敷瓦を磨き始めた。師匠が何をしているのかよくわからないので「師匠、何をしておられるのですか」と馬祖道一禅師は質問した。

南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。
南嶽懐譲禅師がやっている事は、敷瓦を拾い上げて石の上に当てて磨いでいるのであるから、誰が見ても敷瓦を磨いでいると言う事は見分けがつく。ところがなぜ敷瓦を磨ぐかという理由がわからないから、南嶽懐譲禅師が一体何をしているのかよくわからない。敷瓦を磨いている事が、まともな師匠のやっている事なのかどうか、その辺は誰も判断がつかないであろう。

しかしながら、この南嶽懐譲禅師がやった敷瓦を磨く動作というものは、馬祖道一禅師が質問したように「一体何をしておられるんですか」と当然に質問されるべき問題であり、またそういう質問が行われてきたのである。

そして、この日本の国、日本の国以外の様々な国がこの地上の世界にはあるけれども、我々人間のやっている事を考えて見るならば、一体何のためにやっているのかよく解からない様な事が、あちらでもこちらでも行われている。その点では、自分の考え方、見方と言うものを「これが自分の見解だ」「これが自分の見方だ」と自信を持って確定する事がないばかりでなく、自分の考えは決まったから、もうこれでいいんだ、という状態だけではなしに、様々の仕事に関連して、まだまだ勉強しなければならない事があるという事をはっきりと自分の気持ちに言い聞かせる様な状態である。


                
              ―西嶋先生の話―
    --つづき

なぜこの「刹那生滅の道理」が、それ程仏教を理解する上において大切かと申しますと、これは単に仏教だけではなしに、世界の哲学の歴史と言うものが非常に長い間悩んでいた問題である訳であります。それはどういう問題かと言うと、人間には自由があるかどうかと言う問題があります。普通、人間には自由な意思を持って、やりたい事もやれるものだと言う考え方がある訳であります。

我々は良心と言うものに従って行動するのだから、その良心に従って行動するだけの自由が人間にはあるなどと言う考え方が、昔から一つの考え方としてある訳であります。ところが反面、我々の人生というものは全て原因・結果に束縛されていると言う考え方もある訳であります。もし原因・結果によって全てが束縛されているとしますと、我々には自由のあるはずがないわけであります。なぜ自由がないかと言うと、過去によって現在が縛られていると言う事になりますと、現在は決して動きの取れるものではない、束縛されていて自由に行動ができるものではないと言う考え方が必然的に出て来るわけであります。

したがって、西洋の哲学の歴史の中ではギリシャ時代以来、人間が自由であるかないかという事は非常に大きな問題でありまして、この問題は決して今迄結論がでなかった。ある人が自由がなければおかしい、もし自由がなければ善悪と言うものがなくなってしまうというふうに考えて人間には自由があると主張したわけであります。また別の立場の人は、人間に自由があるなんて事は甘い話だ、人間はすべて原因・結果によって束縛されているのであるから、善悪の区別をしてやれるとか、やれないとかと言う力は人間にはないんだ。成り行き次第でズルズルと環境に引きずられて生きていく以外に人間の生き方はないと言う非常に有力な主張もやはりギリシャ時代からずっと続いて来ている訳であります。

この両方の考え方は、決して両立すると事はありえない関係になっている訳であります。もし自由があるという考え方をとりますと、我々が因果関係に縛られていると言う事が嘘になってしまう。また我々の人生が因果関係によって縛られていると言う考え方をとりますと、我々に自由があるという事は嘘になってしまう。
                             つづく--


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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」戒名は幽村芳春。
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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