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正法眼蔵 坐禅箴 10

南嶽懐譲禅師と馬祖道一禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。馬祖道一禅師の言われたところでは、坐禅というものは「必ず仏になりたい」と言う努力でやっているのが実情である。坐禅と言うものは、例外なしに仏になりたいと言う一心で一所懸命やるものである。坐禅を実際にやる前に、さあ何とか少しましになろうと言う決断があって坐禅が行われるのである。坐禅が終わった後でもその坐禅の境地を維持して日常生活において、少しでもまともになろうと言う意図が坐禅の後にもある。

足が痛いのを我慢して一所懸命坐禅しているその瞬間においても、やはり多少はましになりたいと言う気持ちがあって坐禅というものは行われるのである。何とかして少しはまともになりたいと言う様々な努力と努力とが、さらに絡まりあってきわめて複雑な状態で我々の日常生活は行われているのである。この様な実情を考えていく場合に、我々の日常生活は少しはましになりたいと言う努力がすべてであると言う事も言える。それは一切が仏にないたいと言う努力に尽きると言う捉え方である。

そのような自分の気持ちと言うものを逃げるわけにはいかない。やらなければならない事から、逃げて逃げて逃げ回ろうとするならば、自分自身の体が失われ自分の生命が失われてしまう様な状態になる。何が何だか訳がわからなくなって、人生の意味も何も全く解からなくなった状態でも、やはり何とか少しはましになりたいと思う事の明け暮れである。



              ―西嶋先生の話―
    --つづき

「行い」と言うものを中心にして、我々の人生と言うものを考えていきますと、過去に行った行いと言うものは、もう一度昔にさかのぼってやり直す事は絶対に出来ないと言う事情がある訳であります。それからまだ来てもいない時間の事を考えて、その時間がきたならば「ああしよう、こうしよう」と頭の中で考えても、本当にその時間が来るまでは、頭の中だけの活動であって「行い」としては意味を持っていない、こういう事情もあるわけであります。

そうすると、我々は現在の瞬間でしか生きられないと言う事情があるわけであります。その現在の瞬間でしか生きられないと言う事の上に、過ぎ去った事は決して取り返す事が出来ない。それから、まだ来ていない時間と言うのは決して我々が生きる事ができないと言う事からしますと、現在の非常に短い時間においてしか我々の人生はないと、釈尊はこう言う事に気付かれた訳であります。そこから「刹那生滅の道理」と言う考え方を持たれた訳であります。

「刹那生滅の道理」と言うのは、別の見方からすれば我々は時間の中に生きている、しかも非常に短い現在と言う時間の中に生きているという事を裏側から説明した教えだと、こう言う事にもなろうかと思います。しかしまた別の見方からしますと、我々の人生は決してそんな途切れたものではない。ずっとつながっていると言う反論も出て来るわけであります。この反論に対しては、映画のフィルムが一コマ一コマに分かれていて、それを非常に速い速度で回転すると、普通の動きになってスクリ-ンに映し出される。そういう事情と似ていると、こういうふうに考える事が出来る訳であります。
                              つづく--


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幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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行持の巻に入りました。この言葉は「いまといふ道は、行持より先にあらず、行持現成するを、いまといふ」と示されているところから見ると、保持、持続という事の意味が、時間的継続と関係の薄いところは明らかであり、むしろ持とは宇宙秩序の保時、戒律の保持という意味が強いと解される。そこで行持とは梵行持戒、すなわち正常な行為と戒律の保持を省略した言葉と解される。

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